HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
英語の授業が終わり、清水くんと一緒に教室を出た。今日はこの予備校の玄関で別れなくてはいけないので、二人とも自然に歩くスピードが遅くなる。
「メールするよ」
「うん」
清水くんは明るく言ってくれたが、なぜか私のほうが暗く沈んだ気持ちになっていた。従兄の家に遊びに行くだけなのに気が重い。できれば今からでもキャンセルしたい気分だ。
しかし、ロビーには母が澄ました顔で立っていて、逃げることはできそうにない。
私が清水くんと一緒に出てくるのを見て、母はまた気味が悪いくらいニコニコと笑っていた。
「清水くん、よかったら今度家に遊びに来てね」
「はい。是非伺います」
――ひぇー!
母と清水くんのやり取りを複雑な気分で聞きながら、清水くんと玄関で別れた。母は鼻歌でも歌いだしそうなくらいご機嫌だった。
「舞ちゃんったら、やるわね」
「何のこと?」
「清水くん。超イケメンでしょ。どうやって仲良くなったの?」
自分の母親が「ちょー」とか言うのを聞くと、こっちが恥ずかしいのだけど、とりあえずその部分は無視した。
「たまたま隣の席になっただけ」
「ああ! やっぱり隣の席の男の子だったわけね」
母は納得顔で頷いている。私もやっぱり母は覚えていたんだな、と思った。清水くんの隣の席になってすぐ、男性も香水をするのか、と聞いたら母は「好きな男の子ができたの?」なんて言ってきたのだ。
――いや、あのときはまだ好きとかそういう状態じゃないし。
心の中でぶつぶつ言いながら、しばらく母の隣を歩いた。地下鉄の駅に到着して、階段を下りる。地下に向かっていく感じが自分の心とシンクロして、ますます暗い気分になった。
地下鉄を降りて、少し歩くと従兄の家が見えてきた。玄関には「猛犬注意」のステッカーが貼ってある。そういえばあの家には昔から大型犬がいるのだ。
私の家でも犬を飼っていたことがあるのだが、父が捨てられていた犬を拾ってきたとか、母が知人から子犬の引き取り手を頼まれたとかで、私は雑種の犬しか知らない。
「こんにちは、お邪魔します」
と、開いたドアの隙間から母は元気な声で挨拶する。私も後ろから「こんにちは」と声を出した。
「いらっしゃい。上がって、上がって」
諒一兄ちゃんの母親である伯母が、かわいらしいエプロン姿で出迎えてくれた。その足元では賢そうな顔をした大型犬が、興味津々という目で私と母を見ている。
ええと、なんだったかな、このワンコ。
猛犬なんて言ったら失礼なくらいよく躾けられた犬で、下手をすると私よりも身の程をわきまえているかもしれない。
そのワンコの後からリビングルームへ入ると、二階から誰かが階段を降りてくる音がした。足音の大きさからして、諒一兄ちゃんのようだ。
「いらっしゃい」
――うわぁぁぁ! やっぱりいたーーーっ!
私は頬を引き攣らせながら「お邪魔します」と小声で返事をする。諒一兄ちゃんはにっこりと笑った。
諒一兄ちゃんも大学生だし、大学生ともなると帰省しているとはいえ、ずっと実家にこもっているようなことはないだろう、いや、むしろお友達と遊びに行っていてほしい、という私の甘い予測と切実な願望はあっさりと裏切られた。
――アレだ、きっと諒一兄ちゃんはマザコンに違いない。
ソファに腰を落ち着けた私は、伯母が目の前に置いてくれたお茶とお菓子を眺めながら密かに思う。
伯母と私の母が近況を報告し合っているのを静かに聞いていると、私の隣にワンコがやって来た。おそるおそる近づいてきて、くんくんと匂いを嗅ぐ。じっとしていると、ワンコは急に諒一兄ちゃんの足元へと去った。
それを目で追って、顔を上げたら、諒一兄ちゃんと目が合った。何だか気まずい。
「舞、二階に行かない?」
「えっ!?」
諒一兄ちゃんは涼しい顔で言った。
私は慌てて目の前のお菓子を見る。
――まだこの美味しそうなお菓子をいただいてませんが!
そこに笑いを含んだ声が聞こえてきた。
「お菓子、持ってきてもいいよ」
私は激しく頭を左右に振った。それじゃあまるで私が子どもみたいだ。恥ずかしくて下を向いていると、伯母のとりなすような柔らかい声がした。
「オバさんたちの話はつまらないでしょ? 二階の真奈美の部屋にマンガがそのままいっぱい置いてあるから、見てきたら?」
真奈美(まなみ)姉ちゃんは諒一兄ちゃんの姉だ。彼女は結婚して実家にはいない。
諒一兄ちゃんが立ち上がる。ワンコもほぼ同時に立ち上がって尻尾を振った。
「舞、行くよ」
一瞬、諒一兄ちゃんとワンコを見比べて、それから伯母と母に視線を移す。誰もが目で私に「二階に行け」と訴えていた。
「では、ちょっと行ってきます」
仕方なく私も立ち上がった。
――まずい。これは非常にまずい展開だ。
階段を上りながら、私はそわそわしていた。これが幼い頃なら探検みたいで楽しくてわくわくしていただろうが、今の私はつまらなくても伯母と母の話を聞いていたいと思う。
諒一兄ちゃんは真奈美姉ちゃんの部屋のドアを開けた。
「うわぁ!」
思わず声を上げる。
何しろ壁には隙間がないくらい本棚が並べられ、その棚には上から下までマンガ、マンガ、マンガ、更にマンガ! それも真奈美姉ちゃんの時代のマンガだから、少し古いタイトルばかりだ。
「メールするよ」
「うん」
清水くんは明るく言ってくれたが、なぜか私のほうが暗く沈んだ気持ちになっていた。従兄の家に遊びに行くだけなのに気が重い。できれば今からでもキャンセルしたい気分だ。
しかし、ロビーには母が澄ました顔で立っていて、逃げることはできそうにない。
私が清水くんと一緒に出てくるのを見て、母はまた気味が悪いくらいニコニコと笑っていた。
「清水くん、よかったら今度家に遊びに来てね」
「はい。是非伺います」
――ひぇー!
母と清水くんのやり取りを複雑な気分で聞きながら、清水くんと玄関で別れた。母は鼻歌でも歌いだしそうなくらいご機嫌だった。
「舞ちゃんったら、やるわね」
「何のこと?」
「清水くん。超イケメンでしょ。どうやって仲良くなったの?」
自分の母親が「ちょー」とか言うのを聞くと、こっちが恥ずかしいのだけど、とりあえずその部分は無視した。
「たまたま隣の席になっただけ」
「ああ! やっぱり隣の席の男の子だったわけね」
母は納得顔で頷いている。私もやっぱり母は覚えていたんだな、と思った。清水くんの隣の席になってすぐ、男性も香水をするのか、と聞いたら母は「好きな男の子ができたの?」なんて言ってきたのだ。
――いや、あのときはまだ好きとかそういう状態じゃないし。
心の中でぶつぶつ言いながら、しばらく母の隣を歩いた。地下鉄の駅に到着して、階段を下りる。地下に向かっていく感じが自分の心とシンクロして、ますます暗い気分になった。
地下鉄を降りて、少し歩くと従兄の家が見えてきた。玄関には「猛犬注意」のステッカーが貼ってある。そういえばあの家には昔から大型犬がいるのだ。
私の家でも犬を飼っていたことがあるのだが、父が捨てられていた犬を拾ってきたとか、母が知人から子犬の引き取り手を頼まれたとかで、私は雑種の犬しか知らない。
「こんにちは、お邪魔します」
と、開いたドアの隙間から母は元気な声で挨拶する。私も後ろから「こんにちは」と声を出した。
「いらっしゃい。上がって、上がって」
諒一兄ちゃんの母親である伯母が、かわいらしいエプロン姿で出迎えてくれた。その足元では賢そうな顔をした大型犬が、興味津々という目で私と母を見ている。
ええと、なんだったかな、このワンコ。
猛犬なんて言ったら失礼なくらいよく躾けられた犬で、下手をすると私よりも身の程をわきまえているかもしれない。
そのワンコの後からリビングルームへ入ると、二階から誰かが階段を降りてくる音がした。足音の大きさからして、諒一兄ちゃんのようだ。
「いらっしゃい」
――うわぁぁぁ! やっぱりいたーーーっ!
私は頬を引き攣らせながら「お邪魔します」と小声で返事をする。諒一兄ちゃんはにっこりと笑った。
諒一兄ちゃんも大学生だし、大学生ともなると帰省しているとはいえ、ずっと実家にこもっているようなことはないだろう、いや、むしろお友達と遊びに行っていてほしい、という私の甘い予測と切実な願望はあっさりと裏切られた。
――アレだ、きっと諒一兄ちゃんはマザコンに違いない。
ソファに腰を落ち着けた私は、伯母が目の前に置いてくれたお茶とお菓子を眺めながら密かに思う。
伯母と私の母が近況を報告し合っているのを静かに聞いていると、私の隣にワンコがやって来た。おそるおそる近づいてきて、くんくんと匂いを嗅ぐ。じっとしていると、ワンコは急に諒一兄ちゃんの足元へと去った。
それを目で追って、顔を上げたら、諒一兄ちゃんと目が合った。何だか気まずい。
「舞、二階に行かない?」
「えっ!?」
諒一兄ちゃんは涼しい顔で言った。
私は慌てて目の前のお菓子を見る。
――まだこの美味しそうなお菓子をいただいてませんが!
そこに笑いを含んだ声が聞こえてきた。
「お菓子、持ってきてもいいよ」
私は激しく頭を左右に振った。それじゃあまるで私が子どもみたいだ。恥ずかしくて下を向いていると、伯母のとりなすような柔らかい声がした。
「オバさんたちの話はつまらないでしょ? 二階の真奈美の部屋にマンガがそのままいっぱい置いてあるから、見てきたら?」
真奈美(まなみ)姉ちゃんは諒一兄ちゃんの姉だ。彼女は結婚して実家にはいない。
諒一兄ちゃんが立ち上がる。ワンコもほぼ同時に立ち上がって尻尾を振った。
「舞、行くよ」
一瞬、諒一兄ちゃんとワンコを見比べて、それから伯母と母に視線を移す。誰もが目で私に「二階に行け」と訴えていた。
「では、ちょっと行ってきます」
仕方なく私も立ち上がった。
――まずい。これは非常にまずい展開だ。
階段を上りながら、私はそわそわしていた。これが幼い頃なら探検みたいで楽しくてわくわくしていただろうが、今の私はつまらなくても伯母と母の話を聞いていたいと思う。
諒一兄ちゃんは真奈美姉ちゃんの部屋のドアを開けた。
「うわぁ!」
思わず声を上げる。
何しろ壁には隙間がないくらい本棚が並べられ、その棚には上から下までマンガ、マンガ、マンガ、更にマンガ! それも真奈美姉ちゃんの時代のマンガだから、少し古いタイトルばかりだ。