HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
「N大? 無理だよ。H大だって厳しいのに」
諒一兄ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「まだ二年生なのに、無理だと決めつけるのは早いよ。それに目標があれば頑張れるだろ?」
「目標?」
「そう。例えば……」
不意に諒一兄ちゃんが動いた。私は驚いてその場に固まってしまう。
「い……やっ!」
気がついたときには諒一兄ちゃんの顔が私の真正面に、前髪が触れそうなくらい接近していた。左肩を強く掴まれていて逃げることができない。
反射的に私は身体を後ろにのけぞらせて、口に手をあてがった。
真奈美姉ちゃんの部屋はドアが開けっ放しだ。一応、階下の母と伯母を気にして声は潜めたつもりだが、もしかしたら聞こえたかもしれない。
諒一兄ちゃんはそのまま私を非難するような目つきをした。
「傷つくな。アイツはよくて、俺はダメなんだ?」
「だ、だって、な、何をする気?」
この状況でこんなことを聞く私はかなり間抜けだと思ったが、とにかく時間を稼いで話を逸らさなければならない。
それにしてはまた質問を間違えた、と思ったが、頭が真っ白で他に何も考えられなかった。
諒一兄ちゃんの顔がフッと優しくなった。
「キス」
私は口に手を当てたまま、小刻みに首を振る。
今度は悲しそうな目で見つめられる。
「俺とはできない?」
「だって、私、清水くんともまだ……」
目の前の諒一兄ちゃんの大きな目は更に大きく見開かれた。
「してない?」
「うん……」
急に諒一兄ちゃんは私を解放してミッキーの隣に座り直した。そして腕組みをすると、ふぅと大きく息をつく。
「まいったな」
体勢を立て直した私は、諒一兄ちゃんを見つめたまま、少しだけ首を傾げた。
「ごめん。びっくりしたよね。怖かった?」
そう言う諒一兄ちゃんはいつもの「従兄」の顔をしていた。私はまだ直前の出来事がよく理解できなくて目をパチクリとさせる。
「怖いっていうか驚いた」
「まさかまだ……とはね」
からかうような調子さえ感じられる声に、私の胸には杭のような太いものがドスッと突き刺さる錯覚が起きた。
――「まだ」ですみませんね! おでことかほっぺとかだったら、あるんですけどね!
そんなことを言ったところでどうにもならないので、諒一兄ちゃんを軽く睨むだけにしておいた。
でも、諒一兄ちゃんは私の顔を見ようとはせず、自嘲気味に微笑んだだけだった。
気がつくとミッキーの寝息が部屋の中に一際大きく響いている。それを聞いていると、私まで吸い込まれそうな気がして笑いたくなったが、そういう雰囲気でもなく、必死になって笑いを噛み殺していた。
それからしばらくして、急に諒一兄ちゃんが立ち上がった。ビクッと肩が震えたが、そんな私を諒一兄ちゃんは優しく見下ろす。
「『少し見直した』って、アイツに言っておいて」
私は部屋を出て行く従兄の背中を黙って見送った。
清水くんの心配が現実になったことに気がついたのは、諒一兄ちゃんが出て行ってからのことだ。私は今更だが、自分の認識が甘すぎたことを反省していた。
――だけど、まさか諒一兄ちゃんが私を?
正直なところ、こんなことが起こってもまだ信じられないでいる。
本当なら喜ぶべき場面なのかもしれない。従兄というひいき目を差し引いても、諒一兄ちゃんはカッコいいし、頭も良くて、優しくて、憧れの人だ。
だけど、それが恋愛感情かと訊かれると、果てしなく否といわざるを得ない。
そもそもそんな対象として考えたことがなかったのだ。従兄は従兄。それは諒一兄ちゃんも同じだと、ほんのさっきまで信じて疑わなかったのだから。
――ど、どうするの、私?
――どうしたらいいの? 助けて、清水くん!
その晩、私は母の布団に自分の布団をこれでもかというくらい密着させて寝た。母は変な顔をしたけれども、特に気にする様子もなかったので、私は安心して身を横たえた。
勿論、これ以上諒一兄ちゃんがおかしなことを考えるはずはないし、母と一緒なのだから絶対大丈夫なのだけど、それでもこうしなければ私の気が済まなかったのだ。
夏期講習の終わりにこんな落とし穴があると、誰が予想できただろう。
なかなか寝付けないので、母が眠っているのを確かめてから、そっと布団から這い出してケータイを見る。
清水くんからメールが来ていた。今日はまた親戚が集まって宴会をしている、と書いてある。私は彼の迷惑そうな顔を思い浮かべて、心の底からホッとした。
「女好きなんて言ってごめんね」
メールを送信すると、母が寝返りをうった。私は慌ててケータイをしまい、布団に戻る。
――早く会いたいよ。
清水くん、清水くん、清水くん……。呪文のように胸の中でつぶやいた。
これがざわざわと落ち着かない心を宥める唯一の方法のような気がした。
皮肉なことに私は、他の人のことなど考えられないくらい清水くんのことを好きになっていた自分に今、気がついたのだった。
諒一兄ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「まだ二年生なのに、無理だと決めつけるのは早いよ。それに目標があれば頑張れるだろ?」
「目標?」
「そう。例えば……」
不意に諒一兄ちゃんが動いた。私は驚いてその場に固まってしまう。
「い……やっ!」
気がついたときには諒一兄ちゃんの顔が私の真正面に、前髪が触れそうなくらい接近していた。左肩を強く掴まれていて逃げることができない。
反射的に私は身体を後ろにのけぞらせて、口に手をあてがった。
真奈美姉ちゃんの部屋はドアが開けっ放しだ。一応、階下の母と伯母を気にして声は潜めたつもりだが、もしかしたら聞こえたかもしれない。
諒一兄ちゃんはそのまま私を非難するような目つきをした。
「傷つくな。アイツはよくて、俺はダメなんだ?」
「だ、だって、な、何をする気?」
この状況でこんなことを聞く私はかなり間抜けだと思ったが、とにかく時間を稼いで話を逸らさなければならない。
それにしてはまた質問を間違えた、と思ったが、頭が真っ白で他に何も考えられなかった。
諒一兄ちゃんの顔がフッと優しくなった。
「キス」
私は口に手を当てたまま、小刻みに首を振る。
今度は悲しそうな目で見つめられる。
「俺とはできない?」
「だって、私、清水くんともまだ……」
目の前の諒一兄ちゃんの大きな目は更に大きく見開かれた。
「してない?」
「うん……」
急に諒一兄ちゃんは私を解放してミッキーの隣に座り直した。そして腕組みをすると、ふぅと大きく息をつく。
「まいったな」
体勢を立て直した私は、諒一兄ちゃんを見つめたまま、少しだけ首を傾げた。
「ごめん。びっくりしたよね。怖かった?」
そう言う諒一兄ちゃんはいつもの「従兄」の顔をしていた。私はまだ直前の出来事がよく理解できなくて目をパチクリとさせる。
「怖いっていうか驚いた」
「まさかまだ……とはね」
からかうような調子さえ感じられる声に、私の胸には杭のような太いものがドスッと突き刺さる錯覚が起きた。
――「まだ」ですみませんね! おでことかほっぺとかだったら、あるんですけどね!
そんなことを言ったところでどうにもならないので、諒一兄ちゃんを軽く睨むだけにしておいた。
でも、諒一兄ちゃんは私の顔を見ようとはせず、自嘲気味に微笑んだだけだった。
気がつくとミッキーの寝息が部屋の中に一際大きく響いている。それを聞いていると、私まで吸い込まれそうな気がして笑いたくなったが、そういう雰囲気でもなく、必死になって笑いを噛み殺していた。
それからしばらくして、急に諒一兄ちゃんが立ち上がった。ビクッと肩が震えたが、そんな私を諒一兄ちゃんは優しく見下ろす。
「『少し見直した』って、アイツに言っておいて」
私は部屋を出て行く従兄の背中を黙って見送った。
清水くんの心配が現実になったことに気がついたのは、諒一兄ちゃんが出て行ってからのことだ。私は今更だが、自分の認識が甘すぎたことを反省していた。
――だけど、まさか諒一兄ちゃんが私を?
正直なところ、こんなことが起こってもまだ信じられないでいる。
本当なら喜ぶべき場面なのかもしれない。従兄というひいき目を差し引いても、諒一兄ちゃんはカッコいいし、頭も良くて、優しくて、憧れの人だ。
だけど、それが恋愛感情かと訊かれると、果てしなく否といわざるを得ない。
そもそもそんな対象として考えたことがなかったのだ。従兄は従兄。それは諒一兄ちゃんも同じだと、ほんのさっきまで信じて疑わなかったのだから。
――ど、どうするの、私?
――どうしたらいいの? 助けて、清水くん!
その晩、私は母の布団に自分の布団をこれでもかというくらい密着させて寝た。母は変な顔をしたけれども、特に気にする様子もなかったので、私は安心して身を横たえた。
勿論、これ以上諒一兄ちゃんがおかしなことを考えるはずはないし、母と一緒なのだから絶対大丈夫なのだけど、それでもこうしなければ私の気が済まなかったのだ。
夏期講習の終わりにこんな落とし穴があると、誰が予想できただろう。
なかなか寝付けないので、母が眠っているのを確かめてから、そっと布団から這い出してケータイを見る。
清水くんからメールが来ていた。今日はまた親戚が集まって宴会をしている、と書いてある。私は彼の迷惑そうな顔を思い浮かべて、心の底からホッとした。
「女好きなんて言ってごめんね」
メールを送信すると、母が寝返りをうった。私は慌ててケータイをしまい、布団に戻る。
――早く会いたいよ。
清水くん、清水くん、清水くん……。呪文のように胸の中でつぶやいた。
これがざわざわと落ち着かない心を宥める唯一の方法のような気がした。
皮肉なことに私は、他の人のことなど考えられないくらい清水くんのことを好きになっていた自分に今、気がついたのだった。