HAPPY CLOVER 3-夏休みの魔物-
#03 元カノさんが気になります。(side舞)
妙なことになった。
私の予備校デビューがこんな複雑なことになるとは思いも寄らなかったのだ。
顔を上げて正面を見ると、おしゃれな黒縁眼鏡をかけた美声の男性講師が英作文の講義を行っている。ジャケット、シャツ、ネクタイ、ズボン……そのセンスのよい組み合わせが大人の余裕を醸し出していた。
なんでも女子にものすごく人気のある講師らしい。私としては顎が少ししゃくれ気味なのが気になるけど。
しかし、低音の滑らかな声質で英文を話すとこんなに心地よく聞こえるものだろうか。
あの声だけで「ステキ!」と目がハートになってしまう女の子もいそうだ。
――はぁ……。
知らず知らずため息が漏れる。
これが壇上にいる松岡先生に恋焦がれるため息だったらよかったのだけど、そうではない。
自分の右隣にチラッと目線を走らせた。
隣には清水くん。この人は真面目な顔をしていても綺麗な顔だ。綺麗というか目立つというか。とにかく印象的な顔立ちだ。
この人の顔がほんの少しでも視界に入ると、私の意識はほぼ自動的に彼へと引きつけられてしまう。
――私、清水くんの顔が好きなのかな?
確かに彼の顔は好きだと思う。いつまでも見ていたいと思うのだから、好き以外の何物でもないはずだ。
――顔だけ好きなのかな?
正直なところ、よくわからない。いや、わからなくなった、と言うべきか。
清水くんの向こう側には女子が座っている。そう、あのミニスカートを履いた、やたらと目力を強調しているユウだ。
清水くんとは中学の同級生だというが、ただの同級生がこんなふうにべったりとくっついているものだろうか。
少なくとも私は、付き合っている男女以外でこれほどまでにベタベタしている二人組を見たことがない。
ユウはしきりに清水くんの耳元に何かを囁いている。私には聞こえないし、私自身も興味がない。でもとても嫌な光景だ。
――これってなんなんだろう。
もう一度、清水くんの顔を見る。
彼は微動だにせず、ただじっと黒板を眺めていた。たぶん午後の講義が始まってからずっと同じ姿勢で、ほとんど身動きしていない。
私は彼から目を逸らすと、板書に専念した。
コンタクトレンズを装用しよく見えるようになったから、清水くんに手伝ってもらう必要がなくなったのだ。
これで授業に集中できるというものだ。
それでも何か清水くんの態度にはひっかかるものがあって、私はノートに英文を書き込みながらまた小さくため息をついた。
清水くんの様子が変だと気がついたのは、諒一兄ちゃんとご飯を食べた後からだ。
本屋に現れたのは清水くん一人で、諒一兄ちゃんは先に帰ってしまったらしい。迎えに来てくれた清水くんも暗い顔をしていて、ほとんど喋らない。清水くんと諒一兄ちゃんが二人で何を話したのか、聞きたくても聞けない状態だった。
もしかすると、清水くんはユウの話など聞いていないのかもしれない。それくらい彼は深刻そうな顔で黙りこくっている。
――うーん……。
本当に妙なことになった。
それにしても諒一兄ちゃんは何をしに来たのだろう。母がチズ子伯母さんに電話していたので、伯母さんから頼まれて……?
いや、そんな感じはしなかった。伯母さんの話が全然出なかったし。
しかも諒一兄ちゃんは清水くんをよく思っていないみたいだ。
どうしてだろう。清水くんはモテるくせに、なぜか表面的には敵が少ない人だ。男子の友達も多い。初対面の諒一兄ちゃんが彼を嫌う理由が思いつかない。
――それに男二人で何を話していたんだろう?
この清水くんを黙らせるくらいだから、相当破壊力のある話だったに違いない。でも初対面の二人に共通する話題といったら、この私に関することくらいじゃないだろうか。
私を追い出して話すくらいだから私の悪口だったりして。
――でも諒一兄ちゃんはそういう人じゃないな。
私の知る限り、高橋諒一という人はユーモアもあるけれども基本的にはものすごく真面目だ。
高校時代から弓道部で活躍し、その腕前を買われてあのKO大学の関係者からスカウトされたにもかかわらず、それを蹴って自分のやりたい研究のできる大学に入ったという逸話の持ち主でもある。
そして諒一兄ちゃんはいつも私のよき理解者だった。
親戚の中で大好きな本のことを語り合えるのは彼しかいない。不思議と好きな作家の傾向が似ていて、諒一兄ちゃんと物語についてあれこれと話すのが私の楽しみの一つでもあった。
先生の独特な喋り方に慣れてきて、ようやく授業にも集中できた頃、あっけなく終わりのベルが鳴った。やはり学校の授業と違って、エッセンスが凝縮されているのか90分という長さがさほど苦にならない。
予備校に通うことにしてよかったな、と思いながら清水くんを見ると、ユウに思い切り睨まれた。
「はるくんの彼女さん」
へ? ……私のこと?
私はきょとんとしてユウの顔をまじまじと見つめる。
「高橋さん、だよ」
横から清水くんの面倒くさそうな声がした。
「ふーん、高橋さんね。はるくんと同じ学校なの?」
「そう……です」
「ふーん。サヤカさんのほうが断然おしゃれでかわいかったのに、ずいぶんレベル下げちゃったのね」
ユウは得意げに言った。
――サヤカ……さん?
――おしゃれで……かわいい……
いつのまにか教室の中は静かになっていた。ハッとして辺りを見回すと私たち三人しか残っていない。
「市村、余計なこと言うな」
清水くんの声は静かだが怒気を含んでいた。「市村」と呼ばれたユウは目を見張る。
「本当のことを言って何が悪いのよ」
「お前の友達いない理由はそれだ」
ため息混じりにそう言うと、清水くんは私の手を取った。
「言っていいことと悪いことがあるだろ。他人にモノを言うときは、もっとよく考えてから口にしろよ」
「何よ、はるくんまで私が悪いって言うの?」
ユウは清水くんの背中に言葉を投げつけた。その苦し紛れのセリフに私は思わず立ち止まる。
「別に。これ以上お前の相手をしてる暇はない。じゃあな」
そっけなく言い放つと清水くんはユウを置いて教室を出た。ズンズンと廊下を進む。手を引っ張られて私も同じように廊下を小走りで過ぎる。
「あの、市村さんって友達いないの?」
予備校の玄関を出て、辺りに人がいないことを確かめてから清水くんに訊ねた。清水くんは少しだけ歩く速度を緩める。
「中学のときはいなかったね。今も、あれじゃあ無理だな」
「そうなんだ……」
いろいろと複雑な気持ちになった私は隣に歩調を合わせつつ、自分のつま先ばかりを見つめていた。
「舞?」
「いや、私も友達いないから……」
他人事には思えなかった、というのが本音だったりする。
清水くんは急に大げさに驚いて見せた。
「いやいや、舞とは全然違うよ!」
それまで無表情だった人が突然豹変してオーバーな身振り手振りをするので、私もびっくりした。
「そ、そうかな」
「そう。それにアイツが変なこと言い出して、気分悪くさせたよね。ごめん」
今度は萎れた花のように首をがくりと垂らして、清水くんは元気のない声で言った。
――サヤカさん?
たぶん清水くんの前の彼女なんだろう。私の前に何人くらい彼女がいたのかなんて想像もつかないが、やはり特定の人の名前が出てくるとどうしようもなく胸が痛んだ。
「何のこと?」
すっとぼけてみたが、逆に寒々しい空気が二人の間に漂い始める。
「あ、いや……」
ここまでたじろいだ清水くんの姿を見るのはある意味爽快だけど、やっぱり私には言いたくない何かがあるのだと思い知ってますます暗い気持ちになった。
喉元まで「サヤカさんって誰? どんな人?」と出かかっているのだが、それを聞いたら自分がどうなってしまうかわからなくて怖い。
――やっぱりやめておこう。
知らぬが仏、って言うよね。どうせ過去の出来事なんか私にはどうすることもできないのだから。
もやもやと、ぐるぐると、言いようもないもっさりとした嫌な感情が心の奥底でうごめいていた。
ここは何か話題を変えようと思い、とりあえず頭に浮かんだことを口にする。
「あ、そういえば諒一兄ちゃんと何を話していたの?」
言ってから清水くんの顔を見たのだが、その瞬間私の心は凍りついた。
「大したことじゃない」
「そう……なんだ」
私はいけないものを見てしまったような気がして、また自分のつま先に視線を落とした。
鋭く射るように私を一瞥したその視線は、彼から目を背けた後も私の胸に深く突き刺さり、じわじわと私の内部を侵食していく。
身体中の細胞が悲鳴を上げているような気がした。
「ごめんなさい」
わけがわからないまま許しを請う。結局私にはこれしか言う言葉が見つからなかったのだ。
清水くんが繋いでいた手を握り直した。二人とも酷く汗ばんでいる。
「どうして謝るの? 舞は何も悪くないのに」
おそるおそる顔を上げると、心配そうな目をした清水くんと目が合った。
「でも諒一兄ちゃんが予備校まで来たのは……私のせいだし」
「舞、一つ聞いていい?」
急に清水くんが改まった調子でそう言った。私はドキッとしたが、小さく頷く。
私の予備校デビューがこんな複雑なことになるとは思いも寄らなかったのだ。
顔を上げて正面を見ると、おしゃれな黒縁眼鏡をかけた美声の男性講師が英作文の講義を行っている。ジャケット、シャツ、ネクタイ、ズボン……そのセンスのよい組み合わせが大人の余裕を醸し出していた。
なんでも女子にものすごく人気のある講師らしい。私としては顎が少ししゃくれ気味なのが気になるけど。
しかし、低音の滑らかな声質で英文を話すとこんなに心地よく聞こえるものだろうか。
あの声だけで「ステキ!」と目がハートになってしまう女の子もいそうだ。
――はぁ……。
知らず知らずため息が漏れる。
これが壇上にいる松岡先生に恋焦がれるため息だったらよかったのだけど、そうではない。
自分の右隣にチラッと目線を走らせた。
隣には清水くん。この人は真面目な顔をしていても綺麗な顔だ。綺麗というか目立つというか。とにかく印象的な顔立ちだ。
この人の顔がほんの少しでも視界に入ると、私の意識はほぼ自動的に彼へと引きつけられてしまう。
――私、清水くんの顔が好きなのかな?
確かに彼の顔は好きだと思う。いつまでも見ていたいと思うのだから、好き以外の何物でもないはずだ。
――顔だけ好きなのかな?
正直なところ、よくわからない。いや、わからなくなった、と言うべきか。
清水くんの向こう側には女子が座っている。そう、あのミニスカートを履いた、やたらと目力を強調しているユウだ。
清水くんとは中学の同級生だというが、ただの同級生がこんなふうにべったりとくっついているものだろうか。
少なくとも私は、付き合っている男女以外でこれほどまでにベタベタしている二人組を見たことがない。
ユウはしきりに清水くんの耳元に何かを囁いている。私には聞こえないし、私自身も興味がない。でもとても嫌な光景だ。
――これってなんなんだろう。
もう一度、清水くんの顔を見る。
彼は微動だにせず、ただじっと黒板を眺めていた。たぶん午後の講義が始まってからずっと同じ姿勢で、ほとんど身動きしていない。
私は彼から目を逸らすと、板書に専念した。
コンタクトレンズを装用しよく見えるようになったから、清水くんに手伝ってもらう必要がなくなったのだ。
これで授業に集中できるというものだ。
それでも何か清水くんの態度にはひっかかるものがあって、私はノートに英文を書き込みながらまた小さくため息をついた。
清水くんの様子が変だと気がついたのは、諒一兄ちゃんとご飯を食べた後からだ。
本屋に現れたのは清水くん一人で、諒一兄ちゃんは先に帰ってしまったらしい。迎えに来てくれた清水くんも暗い顔をしていて、ほとんど喋らない。清水くんと諒一兄ちゃんが二人で何を話したのか、聞きたくても聞けない状態だった。
もしかすると、清水くんはユウの話など聞いていないのかもしれない。それくらい彼は深刻そうな顔で黙りこくっている。
――うーん……。
本当に妙なことになった。
それにしても諒一兄ちゃんは何をしに来たのだろう。母がチズ子伯母さんに電話していたので、伯母さんから頼まれて……?
いや、そんな感じはしなかった。伯母さんの話が全然出なかったし。
しかも諒一兄ちゃんは清水くんをよく思っていないみたいだ。
どうしてだろう。清水くんはモテるくせに、なぜか表面的には敵が少ない人だ。男子の友達も多い。初対面の諒一兄ちゃんが彼を嫌う理由が思いつかない。
――それに男二人で何を話していたんだろう?
この清水くんを黙らせるくらいだから、相当破壊力のある話だったに違いない。でも初対面の二人に共通する話題といったら、この私に関することくらいじゃないだろうか。
私を追い出して話すくらいだから私の悪口だったりして。
――でも諒一兄ちゃんはそういう人じゃないな。
私の知る限り、高橋諒一という人はユーモアもあるけれども基本的にはものすごく真面目だ。
高校時代から弓道部で活躍し、その腕前を買われてあのKO大学の関係者からスカウトされたにもかかわらず、それを蹴って自分のやりたい研究のできる大学に入ったという逸話の持ち主でもある。
そして諒一兄ちゃんはいつも私のよき理解者だった。
親戚の中で大好きな本のことを語り合えるのは彼しかいない。不思議と好きな作家の傾向が似ていて、諒一兄ちゃんと物語についてあれこれと話すのが私の楽しみの一つでもあった。
先生の独特な喋り方に慣れてきて、ようやく授業にも集中できた頃、あっけなく終わりのベルが鳴った。やはり学校の授業と違って、エッセンスが凝縮されているのか90分という長さがさほど苦にならない。
予備校に通うことにしてよかったな、と思いながら清水くんを見ると、ユウに思い切り睨まれた。
「はるくんの彼女さん」
へ? ……私のこと?
私はきょとんとしてユウの顔をまじまじと見つめる。
「高橋さん、だよ」
横から清水くんの面倒くさそうな声がした。
「ふーん、高橋さんね。はるくんと同じ学校なの?」
「そう……です」
「ふーん。サヤカさんのほうが断然おしゃれでかわいかったのに、ずいぶんレベル下げちゃったのね」
ユウは得意げに言った。
――サヤカ……さん?
――おしゃれで……かわいい……
いつのまにか教室の中は静かになっていた。ハッとして辺りを見回すと私たち三人しか残っていない。
「市村、余計なこと言うな」
清水くんの声は静かだが怒気を含んでいた。「市村」と呼ばれたユウは目を見張る。
「本当のことを言って何が悪いのよ」
「お前の友達いない理由はそれだ」
ため息混じりにそう言うと、清水くんは私の手を取った。
「言っていいことと悪いことがあるだろ。他人にモノを言うときは、もっとよく考えてから口にしろよ」
「何よ、はるくんまで私が悪いって言うの?」
ユウは清水くんの背中に言葉を投げつけた。その苦し紛れのセリフに私は思わず立ち止まる。
「別に。これ以上お前の相手をしてる暇はない。じゃあな」
そっけなく言い放つと清水くんはユウを置いて教室を出た。ズンズンと廊下を進む。手を引っ張られて私も同じように廊下を小走りで過ぎる。
「あの、市村さんって友達いないの?」
予備校の玄関を出て、辺りに人がいないことを確かめてから清水くんに訊ねた。清水くんは少しだけ歩く速度を緩める。
「中学のときはいなかったね。今も、あれじゃあ無理だな」
「そうなんだ……」
いろいろと複雑な気持ちになった私は隣に歩調を合わせつつ、自分のつま先ばかりを見つめていた。
「舞?」
「いや、私も友達いないから……」
他人事には思えなかった、というのが本音だったりする。
清水くんは急に大げさに驚いて見せた。
「いやいや、舞とは全然違うよ!」
それまで無表情だった人が突然豹変してオーバーな身振り手振りをするので、私もびっくりした。
「そ、そうかな」
「そう。それにアイツが変なこと言い出して、気分悪くさせたよね。ごめん」
今度は萎れた花のように首をがくりと垂らして、清水くんは元気のない声で言った。
――サヤカさん?
たぶん清水くんの前の彼女なんだろう。私の前に何人くらい彼女がいたのかなんて想像もつかないが、やはり特定の人の名前が出てくるとどうしようもなく胸が痛んだ。
「何のこと?」
すっとぼけてみたが、逆に寒々しい空気が二人の間に漂い始める。
「あ、いや……」
ここまでたじろいだ清水くんの姿を見るのはある意味爽快だけど、やっぱり私には言いたくない何かがあるのだと思い知ってますます暗い気持ちになった。
喉元まで「サヤカさんって誰? どんな人?」と出かかっているのだが、それを聞いたら自分がどうなってしまうかわからなくて怖い。
――やっぱりやめておこう。
知らぬが仏、って言うよね。どうせ過去の出来事なんか私にはどうすることもできないのだから。
もやもやと、ぐるぐると、言いようもないもっさりとした嫌な感情が心の奥底でうごめいていた。
ここは何か話題を変えようと思い、とりあえず頭に浮かんだことを口にする。
「あ、そういえば諒一兄ちゃんと何を話していたの?」
言ってから清水くんの顔を見たのだが、その瞬間私の心は凍りついた。
「大したことじゃない」
「そう……なんだ」
私はいけないものを見てしまったような気がして、また自分のつま先に視線を落とした。
鋭く射るように私を一瞥したその視線は、彼から目を背けた後も私の胸に深く突き刺さり、じわじわと私の内部を侵食していく。
身体中の細胞が悲鳴を上げているような気がした。
「ごめんなさい」
わけがわからないまま許しを請う。結局私にはこれしか言う言葉が見つからなかったのだ。
清水くんが繋いでいた手を握り直した。二人とも酷く汗ばんでいる。
「どうして謝るの? 舞は何も悪くないのに」
おそるおそる顔を上げると、心配そうな目をした清水くんと目が合った。
「でも諒一兄ちゃんが予備校まで来たのは……私のせいだし」
「舞、一つ聞いていい?」
急に清水くんが改まった調子でそう言った。私はドキッとしたが、小さく頷く。