泡沫(うたかた)の虹
熱
その日、嘉兵衛は弥平次を連れて、得意先回りに精を出していた。
先日より、住み込みの手代として置いている弥平次が思ったよりも役に立つ。そのことに、嘉兵衛は心の中で喜んでいた。なにしろ、気の利いた手代が集まらない、と嘆いていたのが彼なのだ。やってきた経緯に問題があるかもしれないが、嘉兵衛の眼鏡に適ったあたりでそれも気にされなくなっている。
「腐っても鯛、とはこのことかな?」
思わず、そんな言葉が口からついて出るが、それが弥平次の耳にまでは届いていない。そのことに安心したような息を吐きながら、嘉兵衛は弥平次に声をかけていた。
「弥平次、今日はこのあたりにしておきましょう」
「番頭さん、まだ時間はあるのではありませんか?」
扇屋の若旦那として生活していたころは、このようなことは退屈だと思っていたはず。だというのに、嘉兵衛の声に弥平次が頷こうとしない。そんな彼の姿を嘉兵衛は頼もしいと思っていた。
「ついこの間までは、おどおどしていたのにな。少しの間に、ずいぶんとしっかりしたものだ」
嘉兵衛の声に、弥平次は何も言おうとはしない。井筒屋にきた当初こそ、借りてきた猫のようだった弥平次だが、ここの水があったのだろう。最近では、のびのびとしているように見える。
その彼の肩を軽く叩いた嘉兵衛は、早く帰ろうというような態度を見せていた。だというのに、嘉兵衛の視線が、ふっと弥平次を通り過ぎている。そのことに、弥平次は首を傾げていた。
「番頭さん、どうかしましたか?」
「うん? いや、あそこにいるのは、お嬢さんじゃないかと思ってね」
その声に、弥平次も反射的に振り向いている。その彼の目に飛び込んできたのは、何かに悩んだような表情を浮かべている糸と下女の菊だった。
「番頭さん。どうかなさったんでしょうか?」
弥平次の問いかけに嘉兵衛が応えられるはずがない。それでも、糸をそのままにしておくことはできない。彼は荷物を弥平次に渡すと、糸の側に近寄っていた。
「お嬢さん、どうかなさいましたか?」
「嘉兵衛。いえ、大したことじゃないのよ」
そう言いながらも下を向いてしまう糸の様子から、何でもないはずがない、と嘉兵衛は思っている。そして、彼女の視線の先に目をやった彼は、納得したような表情を浮かべていた。
「このままでお店まで歩けると思っていらっしゃったんですか?」
穏やかな調子の声だが、叱責されていると感じたのだろう。糸は体をピクンとさせている。しかし、そんな彼女に嘉兵衛は片膝をつくと、優しく言葉をかける。
「あたしがお嬢さんのことを怒ると思ってらっしゃるんですか? そんなことをするはずがないでしょう。それよりも、ここに足を乗せてください。すぐに直して差し上げますから」
「でも……嘉兵衛……」
嘉兵衛が足を乗せろと言ったのは、彼の膝の上。いくらなんでも、そんなことをするわけにはいかないと顔を赤くする糸に、嘉兵衛は優しく声をかけ続ける。
「このままでは歩けないのですから、遠慮なさることはありません。さ、早く、ここに足を置いて。お菊ももうちょっとしっかりしなさい。お嬢さんのお付きの役目が泣きますよ」
先日より、住み込みの手代として置いている弥平次が思ったよりも役に立つ。そのことに、嘉兵衛は心の中で喜んでいた。なにしろ、気の利いた手代が集まらない、と嘆いていたのが彼なのだ。やってきた経緯に問題があるかもしれないが、嘉兵衛の眼鏡に適ったあたりでそれも気にされなくなっている。
「腐っても鯛、とはこのことかな?」
思わず、そんな言葉が口からついて出るが、それが弥平次の耳にまでは届いていない。そのことに安心したような息を吐きながら、嘉兵衛は弥平次に声をかけていた。
「弥平次、今日はこのあたりにしておきましょう」
「番頭さん、まだ時間はあるのではありませんか?」
扇屋の若旦那として生活していたころは、このようなことは退屈だと思っていたはず。だというのに、嘉兵衛の声に弥平次が頷こうとしない。そんな彼の姿を嘉兵衛は頼もしいと思っていた。
「ついこの間までは、おどおどしていたのにな。少しの間に、ずいぶんとしっかりしたものだ」
嘉兵衛の声に、弥平次は何も言おうとはしない。井筒屋にきた当初こそ、借りてきた猫のようだった弥平次だが、ここの水があったのだろう。最近では、のびのびとしているように見える。
その彼の肩を軽く叩いた嘉兵衛は、早く帰ろうというような態度を見せていた。だというのに、嘉兵衛の視線が、ふっと弥平次を通り過ぎている。そのことに、弥平次は首を傾げていた。
「番頭さん、どうかしましたか?」
「うん? いや、あそこにいるのは、お嬢さんじゃないかと思ってね」
その声に、弥平次も反射的に振り向いている。その彼の目に飛び込んできたのは、何かに悩んだような表情を浮かべている糸と下女の菊だった。
「番頭さん。どうかなさったんでしょうか?」
弥平次の問いかけに嘉兵衛が応えられるはずがない。それでも、糸をそのままにしておくことはできない。彼は荷物を弥平次に渡すと、糸の側に近寄っていた。
「お嬢さん、どうかなさいましたか?」
「嘉兵衛。いえ、大したことじゃないのよ」
そう言いながらも下を向いてしまう糸の様子から、何でもないはずがない、と嘉兵衛は思っている。そして、彼女の視線の先に目をやった彼は、納得したような表情を浮かべていた。
「このままでお店まで歩けると思っていらっしゃったんですか?」
穏やかな調子の声だが、叱責されていると感じたのだろう。糸は体をピクンとさせている。しかし、そんな彼女に嘉兵衛は片膝をつくと、優しく言葉をかける。
「あたしがお嬢さんのことを怒ると思ってらっしゃるんですか? そんなことをするはずがないでしょう。それよりも、ここに足を乗せてください。すぐに直して差し上げますから」
「でも……嘉兵衛……」
嘉兵衛が足を乗せろと言ったのは、彼の膝の上。いくらなんでも、そんなことをするわけにはいかないと顔を赤くする糸に、嘉兵衛は優しく声をかけ続ける。
「このままでは歩けないのですから、遠慮なさることはありません。さ、早く、ここに足を置いて。お菊ももうちょっとしっかりしなさい。お嬢さんのお付きの役目が泣きますよ」