物語に憧れて。
No.580 こわくないなんて言ったら嘘だけど
――昔から恋着って物がわからなかった。
仕事が終わり、きつく後ろで、結わえていた髪を梳いた。
癖のないさらりとした髪は、そのままストンと肩まで緩いカールを描いておちた。
そして週末を味わうために、行きなれた重厚な木の扉の前に立った。
扉を開ける前に、眼鏡を取る。
これが週末への儀式だ。
キィっとかすかな音をさせて扉を開ける。
「いらっしゃい」
覚束ない視線をさまよわせて、空いているカウンター席に腰掛ける。
隣はよく一緒になる常連と思しき男。簡単に会釈して座る。
「いつものでよろしいですか?」
バーテンの方に目線を向けて、コクリと頷いた。
正直、相手が男ということくらいはわかるが、それ以外はあまりわからない。重要なのは『よく見えない』ということだ。
一杯目に出てくるものはマティーニ。
目の前に飲み物を差し出してくれるときに、唯一しっかり見えるのは彼の整った指先のみ。そして仕上げに撒き散らされるレモンの芳香。
それ以外はまるで水中にいるようなぼんやりした世界の中。
たまに常連と思しき人が話しかけてきたりするが、それさえもはっきり見えはしない。予定調和の一環。
ぼんやりとした視界、金曜日の夜の周りの恋人達の甘やかで、気だるい会話…それを楽しみにこの場所へくる。そして、自分が一人だということを確認したいために――。
もともと、恋愛というものにあまり興味がなかったのだが、妹が恋愛狂いとでも言おうか、かなり激しいタイプだった。
彼女が高校に上がった辺りからその傾向は強くなり、しょっちゅう切った張った的な争いや悩みを私に吐露していたのもまずかったんだろう。大学に上がる頃には、すっかり恋愛は面倒で、気持ちや日常をかき乱されるものという認識になっていた。
ただ決定的になったのは、大学で出会った男によってだ。
なんとなく話が合う、気を使わないで付き合える。
そういう要因で結構気を許していた自覚はある。
相手はモテるというような生易しいものではなく、フェロモン駄々漏れでくるものは拒まずというタイプに見受けられた。
彼が自分にかまうのは、ただの冗談に近い、気まぐれ。そういう風に捕らえていた。
たまに、彼の取り巻きの女子に囲まれたりで、より一層、恋愛はめんどくさいという気持ちに拍車がかかった。
彼から、告白されたときに何の冗談だと思った。
誰かに気持ちを譲り渡すことほど怖いものはない。
彼の真剣な目線と声に恐怖さえ覚えた。
――だから、逃げた。
ただ、逃げ方が甘かったため、すぐに居場所を暴かれて、つかまった。
長期の休みというタイミングも災いして、家族も友人知人も、自分が拉致監禁されたことに気がつくものはいなかった。
結果として、相手に貪られ続け、すっかり抵抗する気力がわかないところまで追い詰められた。
うまく逃げ出せたのは偶然と相手の油断というものでしかなかった。
そのあと自分の痕跡を全て消し、海外に逃げた。
ただ、交友関係を構築するのに、必ず恋人なりと一緒にいなければならない慣習を持つその国では、かなり浮いていた。勉強だけが支えだった。大学を卒業し、日系企業を受けて、日本に戻ってきて数年。
自分が枯れてると言われているのには気がついていたし、それについては満足だ。
できればこのまま、爛れて、落ちて、風化できればいい。
ただ、あのときの彼の激情が、フラッシュバックのように蘇って胸がつかえて、そうなると週末にここに来る。周囲の甘い語らいを聞きながら、自分はきっと長い長い夢を見てる。そんな気分を味わうために、何もはっきり見えないこの場所へとやってくる。
そんなことをつらつらと考えていたせいか、普段は3杯までと決めているのに、ずいぶん飲み過ぎてしまった。周りにいた客達もほぼいなくなっていて、私の回りに緩く取り巻いていた語らいは消えていた。
「ごめんなさい。お店、おしまいですよね。お会計お願いします」
いつもより酔っているせいか、足元が暗く感じて、店内では絶対かけない眼鏡を思わず出してかける。スツールを降りようとして、ふらりとしたところを支えるように腕を緩くつかまられて、びくりとした。
「野乃花……」
記憶より深く低い声に、瞬きをして顔を上げた。
もう何年も、記憶の奥底に仕舞い込もうとした男が隣に座っていた。
「いつになったら、俺を見てくれる?」
彼と出会ってから、ずっと怖くて怖くて仕方なかった。
自分の心の奥底にある『それ』に直面することを。
だから逃げたのに。
くっきりした視界の中に見てしまった彼の表情。
ずっと、ここで話しかけてきていた相手は、彼であったことにようやく気がついた。
自分が張り巡らしたベールのような何かが、二度と戻らないことにも気がつく。
ここに眼鏡をはずして訪れることは、もうないだろう――。
もう、逃げられない。相手からではなく、自分の気持ちから……。
そして逃げようとしていない自分にも気がついてしまった。
仕事が終わり、きつく後ろで、結わえていた髪を梳いた。
癖のないさらりとした髪は、そのままストンと肩まで緩いカールを描いておちた。
そして週末を味わうために、行きなれた重厚な木の扉の前に立った。
扉を開ける前に、眼鏡を取る。
これが週末への儀式だ。
キィっとかすかな音をさせて扉を開ける。
「いらっしゃい」
覚束ない視線をさまよわせて、空いているカウンター席に腰掛ける。
隣はよく一緒になる常連と思しき男。簡単に会釈して座る。
「いつものでよろしいですか?」
バーテンの方に目線を向けて、コクリと頷いた。
正直、相手が男ということくらいはわかるが、それ以外はあまりわからない。重要なのは『よく見えない』ということだ。
一杯目に出てくるものはマティーニ。
目の前に飲み物を差し出してくれるときに、唯一しっかり見えるのは彼の整った指先のみ。そして仕上げに撒き散らされるレモンの芳香。
それ以外はまるで水中にいるようなぼんやりした世界の中。
たまに常連と思しき人が話しかけてきたりするが、それさえもはっきり見えはしない。予定調和の一環。
ぼんやりとした視界、金曜日の夜の周りの恋人達の甘やかで、気だるい会話…それを楽しみにこの場所へくる。そして、自分が一人だということを確認したいために――。
もともと、恋愛というものにあまり興味がなかったのだが、妹が恋愛狂いとでも言おうか、かなり激しいタイプだった。
彼女が高校に上がった辺りからその傾向は強くなり、しょっちゅう切った張った的な争いや悩みを私に吐露していたのもまずかったんだろう。大学に上がる頃には、すっかり恋愛は面倒で、気持ちや日常をかき乱されるものという認識になっていた。
ただ決定的になったのは、大学で出会った男によってだ。
なんとなく話が合う、気を使わないで付き合える。
そういう要因で結構気を許していた自覚はある。
相手はモテるというような生易しいものではなく、フェロモン駄々漏れでくるものは拒まずというタイプに見受けられた。
彼が自分にかまうのは、ただの冗談に近い、気まぐれ。そういう風に捕らえていた。
たまに、彼の取り巻きの女子に囲まれたりで、より一層、恋愛はめんどくさいという気持ちに拍車がかかった。
彼から、告白されたときに何の冗談だと思った。
誰かに気持ちを譲り渡すことほど怖いものはない。
彼の真剣な目線と声に恐怖さえ覚えた。
――だから、逃げた。
ただ、逃げ方が甘かったため、すぐに居場所を暴かれて、つかまった。
長期の休みというタイミングも災いして、家族も友人知人も、自分が拉致監禁されたことに気がつくものはいなかった。
結果として、相手に貪られ続け、すっかり抵抗する気力がわかないところまで追い詰められた。
うまく逃げ出せたのは偶然と相手の油断というものでしかなかった。
そのあと自分の痕跡を全て消し、海外に逃げた。
ただ、交友関係を構築するのに、必ず恋人なりと一緒にいなければならない慣習を持つその国では、かなり浮いていた。勉強だけが支えだった。大学を卒業し、日系企業を受けて、日本に戻ってきて数年。
自分が枯れてると言われているのには気がついていたし、それについては満足だ。
できればこのまま、爛れて、落ちて、風化できればいい。
ただ、あのときの彼の激情が、フラッシュバックのように蘇って胸がつかえて、そうなると週末にここに来る。周囲の甘い語らいを聞きながら、自分はきっと長い長い夢を見てる。そんな気分を味わうために、何もはっきり見えないこの場所へとやってくる。
そんなことをつらつらと考えていたせいか、普段は3杯までと決めているのに、ずいぶん飲み過ぎてしまった。周りにいた客達もほぼいなくなっていて、私の回りに緩く取り巻いていた語らいは消えていた。
「ごめんなさい。お店、おしまいですよね。お会計お願いします」
いつもより酔っているせいか、足元が暗く感じて、店内では絶対かけない眼鏡を思わず出してかける。スツールを降りようとして、ふらりとしたところを支えるように腕を緩くつかまられて、びくりとした。
「野乃花……」
記憶より深く低い声に、瞬きをして顔を上げた。
もう何年も、記憶の奥底に仕舞い込もうとした男が隣に座っていた。
「いつになったら、俺を見てくれる?」
彼と出会ってから、ずっと怖くて怖くて仕方なかった。
自分の心の奥底にある『それ』に直面することを。
だから逃げたのに。
くっきりした視界の中に見てしまった彼の表情。
ずっと、ここで話しかけてきていた相手は、彼であったことにようやく気がついた。
自分が張り巡らしたベールのような何かが、二度と戻らないことにも気がつく。
ここに眼鏡をはずして訪れることは、もうないだろう――。
もう、逃げられない。相手からではなく、自分の気持ちから……。
そして逃げようとしていない自分にも気がついてしまった。