ベッドタイムストーリー
「なあにそれ、どういう意味?」
日々の生活に不満は確かにあった。
見て見ない振りをしていた。
降矢と再会してから、それは琴美の中で隠しきれないものになってしまった。
外見よりも内面の方が変わった。
自分も。降矢も。
ここにいる降矢はもう、あの頃とは違うのに…
木版画に情熱を捧げ、小さな声で琴美を好きだと言った彼は、もうどこにもいない。
海辺にあるこのホテルは、手入れの行き届いた和風庭園が自慢だった。
車がこのホテルに向かっていると知った時、琴美は驚いた。
「俺も来るのは、今日が初めてなんだよね。」
エンジンキーを抜きながら、降矢は言った。
今まで一番高級なホテルだった。
ダブルのホテルの部屋は、申し分ないほど広い。
(泊まるわけでもないのに、もったいない…)
琴美は思うが、料金は降矢が支払うのだから、何かいう筋合いはなかった。
「すごい。ここ、映画でも使われた有名なホテルよね。
前から来てみたかったの。ありがとう。」
降矢は満足げにうなづく。
彼は琴美のこんな言葉が聴きたいのだ。
窓から見る夜の湘南の海は、暗黒の世界で少し恐ろしいが、神秘的でもあった。
水平線の遥か向こうでところどころに灯る船の光に、琴美はこの世の刹那を感じた。
夕食は、ホテル内の中華料理店で摂った。
中華というよりはフレンチといった感じの内装の店で、降矢はコースをオーダーし、二人でゆっくり食事を楽しんだ。
最後のデザートの時、降矢は口をすべらせた。
会話の途中で。
「ユリがすげえ、上海蟹好きでさ…」
突然、出てきた女の名前に琴美は固まった。
一瞬、妻の名かと心がざわめく。
降矢は結局、自分が口を滑らせたと思っていなかった。
「あ、ユリって俺の娘。五歳。
去年、中華街で蟹食べさせたら、はまっちゃってさ。」
ユリか…
娘の名前を出すなんてデリカシーがない。
せっかくのディナーが台無しだ…と琴美は思った。
しかし、立ち上がって、店を出ることなどしない。
降矢の娘がユリという名前だという事実がわかっただけだ。
明るく言う。
「ユリっていうんだ。可愛い名前ね。
そういえば、高二の夏の合宿の時、すごく綺麗なモデルさん来たよね。
あの人、水野ユリって言ったよね。」
琴美は何気なく、思い出話をしただけだ。
降矢は、突然、ポロリと箸を取り落とした。