ベッドタイムストーリー
あっ!と慌てたはずみで、手がフィンガーボールに当たり、勢よく茶をクロスにぶちまけてしまった。
「ごめんな…」
降矢は、しゅんとした顔をして琴美に謝った。
その時、琴美ははっきりと降矢の高校時代の面影を見つけた。
ー親父がどうしても、駄目だっていうんだよね…
哀しげな表情で微笑んで言った17歳の降矢。
長男で一人息子の彼は、家業の自動車整備工場を継がなければならない運命だった。
ー元々、普通高校だって反対してたんだから。
工業高校に行けって散々言われてて。
仕方ないよ。
俺が継がなくちゃ、誰がやるって話だし…
降矢はきっと幼い頃から、父親から
「跡取り息子」だと言い聞かされて育ってきたのだろう、と琴美は感じた。
美大に進学して、さらに専門的な勉強したいという夢は、昔気質の彼の父親には戯言にしか聞こえなかった。
ー木版画は趣味で続けようと思ってさ。
二人の他には誰もいない夕暮れの公園で、降矢は「決意は固まったよ。」とさっぱりとした顔で琴美に言った。
ーそうだね…
琴美は、降矢の本心がまだ揺れ動いていることに気がついていたから、なんて答えたらいいのかわからなかった。
琴美は降矢の木版画が好きだった。
二年の文化祭で始めてそれを目にした。
頭からベールを纏った女性をモチーフにしたものだった。
柔らかな布の質感が見事に表現され、背景の緻密な彫り、繊細かつ鮮やかな色使いに驚き、魅了された。
彼の木版画は、これまでいくつかの賞を受賞してきたと後で知った。
降矢との距離が縮まるきっかけとなった夏の合宿。
夏が終わっても、琴美は美術部にそのまま籍を置いた。
放課後、バイトのない日は、部室を覗きに行った。
夏の合宿の時、麻衣の本当の性格が分かり、あまり好きではなくなったが、口実に使わせて貰った。
表面上は麻衣と仲良くし、降矢と宇野の作業を見に行った。
同じクラスなのに、教室ではほとんど降矢とは喋らなかったが、部室では違った。
いつしか、琴美が来ると宇野は笑って席を外すようになった。