ベッドタイムストーリー
「香坂、来てるぜ。」
宇野は顎をしゃくり、向こうを指した。
肥満気味の彼には似合わない仕草だが、よくやった。
「春休み終わってから、どうかしてるな。ぼうっとしてると、また切っちまうぜ。」
呆れ顏で宇野が言った。
部室の戸口に琴美が立っていた。
琴美がここに来るのは、久しぶりだった。
女子部員に睨まれてるから、あんまり行きたくない、と言っていた。
ケンは彫刻刀をケースに戻し、琴美のそばに歩み寄る。
「おう。どしたの?」
ケンが近づくと、琴美は俯いた。
「うん…今日もお迎えなしなのかなあって思って。」
言ったあと、ケンに媚びるように上目遣いに見た。
「あ~…」
ケンは左手を頭の後ろにやった。
いい返事をしたかったけれど、出来なかった。
今夜、ユリのマンションへ行く約束をしていた。
月、水、金は琴美のパン屋のアルバイトの日だった。
ユリとひんぱんに連絡を取るようになる前は、いつも終わる頃の九時十五分に迎えに行っていた。
琴美は近道だからと言って、変質者が出ると噂の公園の中を通る。
駆け抜けるから大丈夫だと言って。
それを知ってから、ケンは琴美をボディーガードするようになった。
「…ごめん。今、絵を描いてて。
それを仕上げたいんだ。」
ケンは言葉を選びながら言った。
「そっか…。」
寂しげに琴美が目を伏せた。
そんな琴美を見て、ケンは父親を思い出す。
父親を殴りたいと思ったことがあった。
職人気質の父は、仕事は熱心だったが、とにかく女癖が悪かった。
「浮気は男の甲斐性」だと今時、信じられないようなことを平然といってのける。
いかにも自営、という感じの押しの強いガラガラ声の短躯のオヤジで、モテるわけなどないのに、多少金を持っているというだけで、不思議に女が寄って来た。
『お父さん、飽きっぽいから。
どうせまた飲み屋の女でしょ。
趣味悪いったら。
どうせすぐに別れるわ。』
茶饅頭の箱を開けながら、ケンの母が言った。
バレバレの父と女との温泉旅行の土産物だ。
そんなもの、食べなきゃいいのに、母はしっかり食べていた。