ベッドタイムストーリー


「いいね。江ノ島なんて久しぶり。」

後ろに手を延ばして、琴美は本を取る。


降矢は完全に車内から、家族の痕跡を消していた。


幼稚園の子供がいるのに、車内はチャイルドシートもなくマスコットもなく、
12歳の子が聴きそうなアイドルのCDもなかった。


だから、琴美は降矢が時々、車内で要求する濃厚なキスを拒否することもなかった。



これから、ドライブをして、食事をして、ホテルに行く。


降矢は見栄をはっているのか、二人の関係を惨めにしないためか、食事もホテルも贅沢な場所を選んでくれた。



家族の話をする時以外は、降矢と琴美は恋人同士だった。





透のことは、間違いなく愛している。

だから、彼が塞ぎ込む様子をそばで見ているのが辛かった。



降矢といると、彼の男盛りの伸びやかさ、健やかさに救われた。





空は気持ちよく晴れ渡っていた。


車を駐車場に停め、江ノ島大橋を歩いて渡る。


江ノ島の神社でお参りし、銭洗弁天では、お互いに財布を取り出し、小銭を洗った。
エスカーに乗って、緑の木々の中をゆったりと散策し、洞窟にも足を伸ばした。



海原は太陽に煌めき、波は穏やかに凪ぐ。

江ノ島展望灯台から眺める五月の江ノ島の海は、琴美たちを優しく受け入れてくれた。



「綺麗ね。」

「本当だな。」

久しぶりに美しい景色を観た気がして、琴美はTシャツにチノパンというラフな格好の降矢の腕にしがみ付いた。



こんな場所に知っている人間などいやしない。

罪悪感より、欲望の方が勝り、密会のはずが回数を重ねるごとに大胆になってきていた。


「もし知っている誰かに見られたら、それはよっぽど運が悪いということだ。
俺はそんな運の悪い人間じゃねえよ。」

降矢は強気で言う。



江ノ島からの帰り道でも、琴美と降矢はつないだ手を揺らしながら歩いた。


高校生の時のように。

何枚もの木版画を描いていた手。変わらない温もり。


いつも、ケンの手は温かかった。



夕方から暗くなりだした空から、急に雨が降ってきた。

傘など持っていない二人は、雨宿りも兼ねて近くにあった土産物屋に立ち寄った。

< 41 / 62 >

この作品をシェア

pagetop