ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~
香は子供向け番組の音が流れる部屋の中で、電車のおもちゃで遊んでいる翔jをじっと見つめていた。児童相談所から翔を引き取って既に三日が過ぎようとしていた。
診療内科に通い、カウンセリングを受けてきた日々は、彼女にとって決して楽なものではなかった。遠い彼方に追いやってしまった記憶、触れたくも思い出したくもない古い記憶を白日の元に晒し、それと向き合うことを求められるカウンセリングは、彼女の体力を確実に奪っていった。それでも香は再び翔と暮らすために、その作業を甘んじて受けてきた。その努力が実って、今翔は香のかたわらにいる。香の胸には満ち足りた気分が広がっていた。
とはいえ、翔がいられるのは今日が最後だった。明日はまた、相談所のほうにもどされるのだ。いわばお試し期間というわけだ。数日間一緒に暮らして問題がなければ翔は返してもらえる。だから香は自分の感情と闘っていた。
これまでのところ、商都の関係はうまくいっていた。翔自身彼女の感情を逆撫でるようなことはしていなかったし、何よりも独りではないということが香を落ち着かせていた。
もう独りは嫌だ。
香は強くそう思っていた。
思えば、香は独りの時間が長すぎた。子供の頃に親からの愛情を受けて育ってきた記憶は彼女には無かった。そんな風に育ってしまったために香の対人関係は歪んでしまい、友人といえる存在は非常に少ないものになってしまった。そのために陣営の春の時、彼女は灰色の季節を送ってきた。結婚したあとも夫の仕事の関係で二人で居る時間は少なかった。そうしているうちに夫は別の女性とともに去っていってしまった。
もはや香には翔しか残っていなかった。
ならば翔を大切にするはずではないのか。香はそう思うのだが、現実はそうならなかった。思うように行動してくれない翔に対して、辛く当たることしか香には出来なかった。そうなってしまった香のことをカウンセラーは『サバイバー』と呼んだ。
香には翔を傷つけてしまったとき、強い罪悪感があった。そうしてしまう度にもう二度とするまいと心に誓ってきた。だが、その誓いは何度となく破られてきた。その度に彼女は自分を呪ってきた。自分を抑えることが出来ないことに苛立ちを感じてきた。
そうなってしまうときの記憶は香にはなかった。何をきっかけとして翔を傷つけてしまうのか、香にはわからなかった。気がつくと傷ついて翔の鳴き声が香を正気に戻すのであった。悪意が衝動的に首をもたげてくるのだった。
しかし、今はそんなことはなかった。
衝動的な悪意が無くなったわけではなかったが、少なくともそういう『とき』を知ることが出来た。そんなとき、香は少し翔から離れて気分を落ち着かせるようにしていた。主治医からもそうしたときに飲む液状の頓服薬をもらっていたので、酷いときは薬に頼るようにもしていた。
大丈夫、うまくやっていくことが出来る。
それは自信にも似た感情であった。
翔は電車のおもちゃに飽きたのか、おもちゃ箱の中を漁っていた。気に入ったものがないのか、箱の中のものを次々と部屋の中に散らかしていく。
「翔、ちゃんと片付けて」
香は翔を注意する。
苛立つ感情が首をもたげてくる。
だが、翔はいうことを聞いてはくれない。
「翔、いうことを聞いて」
香の声が高くなる。
その瞳に鋭い光が生まれる。
それを見た翔の怯えた視線が香に向けられる。
そうだ、私もこんな眼をしていた…。
香の中に悲しい子供の頃の記憶が一気に蘇って悔いる。
やめて、そんな眼で私を見ないで…。
心の中の香が叫ぶ。
しかし、翔の怯えた視線は変わることがない。
香の心は悲しい記憶から逃れようとする。
しかし、それはかなわない。
翔の視線がより強く香の心を貫いていく。
そうして、ついに香の記憶が途切れてしまった。
診療内科に通い、カウンセリングを受けてきた日々は、彼女にとって決して楽なものではなかった。遠い彼方に追いやってしまった記憶、触れたくも思い出したくもない古い記憶を白日の元に晒し、それと向き合うことを求められるカウンセリングは、彼女の体力を確実に奪っていった。それでも香は再び翔と暮らすために、その作業を甘んじて受けてきた。その努力が実って、今翔は香のかたわらにいる。香の胸には満ち足りた気分が広がっていた。
とはいえ、翔がいられるのは今日が最後だった。明日はまた、相談所のほうにもどされるのだ。いわばお試し期間というわけだ。数日間一緒に暮らして問題がなければ翔は返してもらえる。だから香は自分の感情と闘っていた。
これまでのところ、商都の関係はうまくいっていた。翔自身彼女の感情を逆撫でるようなことはしていなかったし、何よりも独りではないということが香を落ち着かせていた。
もう独りは嫌だ。
香は強くそう思っていた。
思えば、香は独りの時間が長すぎた。子供の頃に親からの愛情を受けて育ってきた記憶は彼女には無かった。そんな風に育ってしまったために香の対人関係は歪んでしまい、友人といえる存在は非常に少ないものになってしまった。そのために陣営の春の時、彼女は灰色の季節を送ってきた。結婚したあとも夫の仕事の関係で二人で居る時間は少なかった。そうしているうちに夫は別の女性とともに去っていってしまった。
もはや香には翔しか残っていなかった。
ならば翔を大切にするはずではないのか。香はそう思うのだが、現実はそうならなかった。思うように行動してくれない翔に対して、辛く当たることしか香には出来なかった。そうなってしまった香のことをカウンセラーは『サバイバー』と呼んだ。
香には翔を傷つけてしまったとき、強い罪悪感があった。そうしてしまう度にもう二度とするまいと心に誓ってきた。だが、その誓いは何度となく破られてきた。その度に彼女は自分を呪ってきた。自分を抑えることが出来ないことに苛立ちを感じてきた。
そうなってしまうときの記憶は香にはなかった。何をきっかけとして翔を傷つけてしまうのか、香にはわからなかった。気がつくと傷ついて翔の鳴き声が香を正気に戻すのであった。悪意が衝動的に首をもたげてくるのだった。
しかし、今はそんなことはなかった。
衝動的な悪意が無くなったわけではなかったが、少なくともそういう『とき』を知ることが出来た。そんなとき、香は少し翔から離れて気分を落ち着かせるようにしていた。主治医からもそうしたときに飲む液状の頓服薬をもらっていたので、酷いときは薬に頼るようにもしていた。
大丈夫、うまくやっていくことが出来る。
それは自信にも似た感情であった。
翔は電車のおもちゃに飽きたのか、おもちゃ箱の中を漁っていた。気に入ったものがないのか、箱の中のものを次々と部屋の中に散らかしていく。
「翔、ちゃんと片付けて」
香は翔を注意する。
苛立つ感情が首をもたげてくる。
だが、翔はいうことを聞いてはくれない。
「翔、いうことを聞いて」
香の声が高くなる。
その瞳に鋭い光が生まれる。
それを見た翔の怯えた視線が香に向けられる。
そうだ、私もこんな眼をしていた…。
香の中に悲しい子供の頃の記憶が一気に蘇って悔いる。
やめて、そんな眼で私を見ないで…。
心の中の香が叫ぶ。
しかし、翔の怯えた視線は変わることがない。
香の心は悲しい記憶から逃れようとする。
しかし、それはかなわない。
翔の視線がより強く香の心を貫いていく。
そうして、ついに香の記憶が途切れてしまった。