結婚白書Ⅲ 【風花】
12.忘我
部屋に漂う香りには覚えがあった
この前 味わうことの出来なかった あの香り
「このコーヒーを やっと飲んでもらえますね」
嬉しそうにカップを差し出す
一口飲むと 濃厚な味わいが 鼻腔に広がった
「美味しいでしょう? 毎日飲んでたら あと少しになっちゃって……
今日飲んでもらえて良かった」
聞きたいのに
野間君と どんな話をしたか知りたいのに
言い出せずにいる
「彼 他に好きな人ができたからって……」
人ごとのように 淡々と話す
「私 そんな話を聞いても なんにも感じなくて むしろスッキリしました
私の想う人は ここにいますから……」
目の前のカップに視線を落としながら話していたが
彼女が 思い切ったように顔を上げた
「さっきはビックリしました まさか遠野さんが待ってるなんて
でも 嬉しかった」
「朋代」
朋代の目は潤み 私の目を真っ直ぐ見ていた
視線が交差し
魂が共鳴する
彼女の腕を掴み 一気に胸元に引き寄せた
そのとき 立場も 責任も 義務も すべて消え去っていた
理性さえも 彼女の前では存在を失った
窓から差す月明かりに 白い肌が浮かび上がる
思いのほか隆起している彼女の胸は 私の脳を更に刺激した
静かに体を重ねると 朋代の口から淡い声が漏れた
唇においた指に 熱い息がかかる
小さく開いた唇に ゆっくり顔を近づけた
どれほど この瞬間を望んだだろう
どれほど 彼女を欲しただろう
抱擁と接吻をくりかえし 彼女のすべてを五感で感じとる
乳房を手におさめ口に含むと 狂おしく身をよじり 朋代が小さく声を発した
滑らかな肌が 激情を駆り立て
甘い吐息が 欲望を引き出す
切なく漏れる声が 私の官能を刺激した
彼女の体内は温かく 私を存分に満たしてくれた
「足が綺麗だね」 そう言うと
”そんなこと 初めて言われたわ”と 彼女が嬉しそうに答えた
足の指 一本 一本に唇をあてると
”くすぐったい”と彼女が身をよじった
「動かないで そのままじっとしてて」
足首に
膝に
腿に
彼女が 長い手足を私の前に投げ出している
両手を上に上げて 脇に唇を這わせた
凪のように 静かな時が流れていた
その心地よさに すべてを忘れ 身をゆだねる
満月なのか 月明かりが 部屋の奥深くまで差し込んでいた