エルゼ
「これは叔父さんが付けてくれた裏の名前。あんたにもあるでしょ」
「あぁ。俺は……エルゼだ」
「……エルゼ。そうか、あんたがエルゼですか」
彼は狐の目を見開いて俺を見た。その瞳には微かに光が宿った気がする。裏社会ではあまり見ない目である。
「噂は聞いてます。貴方は俺が一番会いたいと思ってた殺し屋だ」
「ここ数ヶ月で俺も有名になったものだな」
ふと、ざっざっと数人がコンクリートを擦って歩く音が耳に届いた。どうやら彼、アーシュトレイにも聞こえたらしい。俺たちは揃って口を閉じた。座り込んでいた俺はアーシュトレイが伸ばした手を躊躇なく取り、立ち上がった。
拳銃にはまだ銃弾が残っているが、使わずに済むならそれに超したことはない。俺は手にしていた拳銃を懐にしまいこんだ。その意図を汲み取り、彼は隣で小さく頷く。
「まあ戦えと言われても、俺、武器ないんで困るんですけど」
小声でそんな事を言ったアーシュトレイは放っておいて、俺は路地を早足に歩き出した。相手はまだ裏の人間だと決まった訳ではないが、俺は人を殺しているからどちらにしても動かなければならないのだ。
一瞬、俺の頭にはアパートに帰るという選択肢が上がったが、それはすぐに却下された。アパートに帰るのは朝方になってからで良い。どうせ今日も誰かが待ち伏せしているのだ。
そういう奴ら首を絞めるとか薬を嗅がすとか、静かな行動で襲ってくるので、銃の様に音の激しい武器を持つ俺には不利なのだ。朝方になれば早起きしている人もいるので、襲われにくい。
ここの所毎日そういう奴らが待ち伏せているものだから、俺も少しは学習しているのだ。
思考を錯誤した結果、俺の足が向いたのは例の小屋であった。ボスが用意してくれたあの場所だ。良く言うならオフィス、悪く言うなら殺人鬼の巣である。
一年前、萩森秋子と言う女性がここで銃殺された。現場となったこの場所は警察がとことん調べたので、数ヶ月は近寄れなかった。だがボスの計らいで再び利用出来るようになったのだ。
小屋の大家であるボスが何をしたのかは知らないが、事件捜査中に俺が警察と接触することはなかった。完全なる第三者、ただの傍観者となっていたのだ――殺人を目撃したのは俺なのに。
「もしかして此処、結婚式前殺人事件の現場だったりします?」
「あぁ。世間じゃそんな言われ方をしているな」
俺は先に小屋に入り、アーシュトレイがそれに続いたのを確認してから扉の鍵を閉めた。窓のカーテンは全て閉めてある。外から見ればただの倉庫ぐらいにしか見えないだろう。
ここには様々な道具が揃っているのでしばらくの生活にも対応出来る様になっている。下手をすれば俺の借りているアパートよりも居心地が良い。だが今は自分の部屋の方が恋しい気分だ。最近のこの部屋は使えない。
「水、貰って良いですか?」
アーシュトレイはいつの間にか小型冷蔵庫の扉を開けていた。周りの環境に順応するのが早い男である。彼が右手に持つのは五百ミリのペットボトル。水である。確かにその冷蔵庫には水しか入っていなかった――だがそれは数ヶ月前までの話、だ。
「それは水じゃなくて、毒だ」