エルゼ
俺はボスを見殺しにする事になるのだぞ。そんな事になるのなら腹を斬って自害した方が幾分もマシである。そう考えると狂言だと思っても身体は動かさなければならない。自分の命に代えても俺はボスを護らなければならないのだ。
それが『エルゼ』の呪縛だから。
「いいから、お前はアパートで待ってろ」
「もし、エルゼさんが帰って来なかったら、俺はどうすれば?」
「一度でも師匠と仰いだ男を簡単に殺すなよ」
「……聞いただけです。俺にはもうあんたしか頼る人がいないんだから」
「なら黙って待ってろ。すぐ帰るから」
俺は先に小屋を出た。アーシュトレイが背後で「気をつけて」と言うのが聞こえたが、俺は何も言わずに歩き出した。
夜の街は路地に居ても分かるくらい明るくなっていた。濃い藍色だった空はいつの間にか淡い青に変化している。だがやはり人は一人もいなかった。静けさも変わらない。この街の夜は、まだ明けていないのだ。
男の言っていた第三倉庫というのは、駅近くの工業地にある倉庫のことだ。本当の名は南海工業倉庫と言うのだが、倉庫は三つ以上あるのに人はそこを第三倉庫と呼んでいる。
俺は一心にそこを目指して歩いていた。懐には漆黒の拳銃、ポケットには携帯と幾つかの弾丸。今から何が起こるのか、考えただけで寒気がする。俺は自らの足で、自らの命を狙う男たちの元へ向かっているのだ。
相手は裏に生きる人間。俺なんて、殺しを専門とする職の男である。そんな奴らが、出会って挨拶を交わして話し合いをするだけなんてある訳がない――俺は今から殺し合いをしに行くのだ。そんな分かりきった事を今更考えている。
裏の人間は、特に殺し屋はその職を初めて全うした日、必ず夢を見るそうだ。数多の生無き入れ物に襲われる夢だと誰かが言っていた気がする。その夢は一回だけに留まらず二、三回続くそうだ。
それは当然の現象である。悪に手を染めた、いや身を染めた人ならば見て当然なのだ。殺しの恐怖と罪悪はその夢によって意識され、心の奥に眠り続けるのだ。それは自分の中の善を封印するかの様に。
だが俺はこの職について七年、そんな夢を見た事がない。そもそも夢と言うもの自体が久しい。だからその話を聞いた時、俺には罪悪と言うものがないのだと思った。
初めて人を殺した時に感じたのは恐怖だけ。つまり自分に対する防衛感だけは確かにあるのだ。俺は人を殺したくないと言いながら、懐の拳銃を手放した事が無い。誰かに何度か臆病者と呼ばれたことがあるが、まさにその通りの男である。
俺は第三倉庫を目の前にしてその拳銃の存在を今一度確かめた。小屋を出てから三十分も経っていない。聞こえる声から推測すると中には幾らかの人がいるらしいが、その声だけでボスの存在を確認するのは不可能だった。
第三倉庫の周りは見張りの一人でさえも居ない。声がするのは第三倉庫だけで、他の倉庫は物音一つしない。この中に誰が居るのか分からないが、俺はとりあえず深呼吸をした。そして人を殺すと言う行為を自分の中で肯定した。
扉はがらがらと音を立てて開いていった。その音に中の人々は俺の存在に気が付き始める。殺気など俺には分からないが、部外者が来たと思っているのは確かだろう。そして、それが『エルゼ』であると言うことも分かっているかもしれない。