エルゼ
歩き続けて数分、俺のマンションに着いた。エレベータで二階まで行くと、鍵を開けて先に女の背を押してから、入った。電気をつけると少しだけ安心した。
……我が家だ。
家具はテレビとソファーとラジオ、それに冷蔵庫と調理器具が幾つかあるだけ。昔はもっと家具を揃えて、お洒落な暮らしを夢見ていた。
が、裏の世界に足を踏み入れてからと言うもの、引越し続きだった。この家で五回目だ。長い間、同じ場所には居られない。だから家具を揃えても仕方が無いと、三回目の引越しで気づいた。それで、この少なさだ。
女は入り口で立ち止まっていた。俺が歩けと言うと二、三歩だけ進み、リビングでまた立ち止まってしまう。完全に怖がられているのだろう。否、そう仕向けたのは俺だ。
とにかく逃がさないようにしなければ。だが、家に帰らなければ女の家族も心配して、警察に捜索願を出すかもしれない。そうなればあの赤タイの男の事件が浮上し、俺が捜査上に現れ、ボスにばれるのも時間の問題になる、か。
ふと、時計を見た。時間は深夜の二時を過ぎた頃だった。あの男を殺した時点でもう零時を過ぎていたのだから、妥当な時間か。今の時間を確かめると急に疲れが襲ってきた。
今日は何となく、特に疲れた。冷蔵庫を開けて五百ミリのペットボトルを二本取り出した。一つは飲みかけ、もう一つは封を切っていないものだ。後者の方を女に差し出すと、女は無言で受け取り、小さく会釈をした。
「座れよ」
顎でソファーを示すと、女は俺を気にしながらそれに腰を下ろした。隣になんて座ろうものなら、こっちが殺されてしまいそうだ。俺はテレビをつけて水を一口飲んだ。
テレビには、深夜ドラマが放送されていた。見たこともない俳優、つまらないストーリー。しばらくそれを眺めた後で、俺は口を開いた。
「悪かった」
女は何事かと俺を見上げた。
「お前を殺す気はない。ただ、逃がす訳にもいかないんだ」
渡した水はまだ一口も飲まれていない。ソファーの上で微動だにせず俺の言葉を聞く女は、まるでロボットの様だった。俺が言い訳をしても、女が聞いてくれない事は理解している。
人を殺した時点で、表に住む女の思考では、俺は既に悪の存在なのだ。悪と認識した人間を簡単に善の領域に戻すのは、相当難しいだろう。
「あんな事を言った後で信じられないだろうが、分かってくれ」
多分、分かってくれないだろうな。だが、他に適当な言葉が思いつかなかったのだ。女は反応を示さず、手に持つペットボトルをじっと見つめていた。そうして、本当に小さなため息をついた。
それからはただ、ゆっくりと時間が過ぎていただけだった。三時になり、四時になった。女は眠気を我慢していたが、四時半を過ぎた頃、ペットボトルを手に持ちながら眠りに身を任せてしまった。
五時になると、テレビにはニュースが流れ始めた。
「この男」
テレビニュースに、俺が殺した赤いネクタイの男の写真が出た。警察は男が何らかの事件に巻き込まれたとして、捜査を開始したらしい。しかしまだあまり情報がないのか、その事件は一分足らずで違うニュースと入れ替わってしまった。
それと同時に、俺の電話が鳴る。ディスプレイには見慣れた番号があった。が、電話に出る気分ではなかったので、無視した。
鳴っては切れて、鳴っては切れてが繰り返されて三回。ようやく携帯は静かになった。