エルゼ
俺はボスの頼みを断った事がなかった。断る理由がなかったからだ。標的となる相手はいつも見知らぬ人ばかり。表の世界で幾ら有名でも、俺には関わりの無い人だった。だから、考えずに拳銃を向けられた。
殺したって俺が悲しむ必要はなく、後悔をする暇もない。そうして次々とボスの頼みを聞いていたのだ。
しかしどうだ。今回殺せと言われたのは知り合いだ。姿と名前だけでなく、どの様にして仕事をこなすのか、どの様にして笑うのかを知っている人間だ。
「ボス」
どうすればいい、その思いを込めてボスを呼んだ。すると彼は言った。答えは行動で示してくれ、と。つまり請けるなら殺せ、請けないなら殺すなと言うことだ。
請けなくても俺は殺されないのだろうか。ふと、そんな思いが頭を過ぎった。今までは考えたこともなかったが、ボスについていた人間の最終地点は何処なのだろう。裏の人間は知らぬ間に消えていき、人の記憶に残る事はない。
どうなってその状態になるのだろう。やはり殺されてしまうのだろうか。
ボスは返事をしない俺に、大丈夫だ。と声をかけた。それからすぐに通話は切れた。銃弾が家に撃ち込まれた事も忘れて、俺は携帯をしばらく眺めた。
シガー。奴に電話してやろうかとも思った。
「あの」
女が言った。
「エルゼ、さん」
名前を呼ばれたのでその方を見ると、女は首を傾げていた。
「大丈夫ですか」
胸に込上げる怒りがあった。が、その怒りはただの八つ当たりだと気づき、俺はゆっくりと深呼吸をした。
全ての事情をその時、頭で整理することが出来て、心なしか落ち着くことが出来た。女の声は震えていたが、なぜか、芯のある真っ直ぐな声だと思った。
「お前、道に迷ったって言っていたな」
女は少しだけ戸惑い、そうして思い出したように応えた。
「はい」
「どこに行きたかったんだ」
数秒の沈黙。女は床の模様を眺めていた。
「どこだ」
俺がもう一度問うと、女はようやく、光を映さない目で応えた。
「あの時は家に帰りたくて。でも、今は式場に行かなきゃ」
「……式場」
同じ台詞を繰り返すと、女は俺を見て頷いた。
深い思案に浸ろうとした時、俺の目は不意に、窓の外の光るものを捉えた。もう太陽は完全に出ていると言うのに、二発目を撃つ気か。
俺は女の腕を引き立ち上がらせて玄関に向かった。扉の鍵は開いていた。シガーが帰った時から開けっ放しだったのだろう。ノブに手をかけた時、二発目が発砲された。銃弾は女が這っていた床に埋まった。
今の俺には問題が幾つかある。ボスに嘘をついたこと、赤ネクタイの男がニュースに流れたこと、女を殺さなければならないこと、シガーを殺せと言われたこと、そうして、今の銃弾の意図。
今の女には問題が一つしかなかった。殺されるか否か。