野獣の誘惑
辺りの空気がシン──と固まった。
ナンパを見て見ぬふりをしていた人々もジロジロと眺めていた野次馬達も、皆が視線をこちらに向ける。
横で見ていた茶髪は状況が理解出来ないようで瞬きを繰り返している。
(あーあ、やっちゃったし)
見た目は美少女な柚は、実は小さい頃から柔道を習い、今や黒帯まで所持している有段者。
中学に入学してからは空手までかじりはじめた人物である。
「ねぇ」
「は、はい!」
柚が呆然としている茶髪に話しかける。
完全に怯えきっている茶髪の声は裏返っていた。
なんか笑える。
「同じように投げてあげよっか?」
茶髪の方に振り返った柚はそれはそれは満面の笑みで尋ねた。
これがこんな状況じゃなければ天使の微笑みだが、今は悪魔の微笑みにしか見えない。
「つ、慎んでお断りしまっす!」
茶髪はいまだに目を回している金髪を引き連れ、一目散に逃げていった。
「ふんっ。ナンパする度胸あるのにケンカする度胸がないなんて、なっさけない奴ら!」
「そ、そうだな……」
誰だって女の子が簡単に男を投げれば只者ではないと恐れるだろうに。
しかし、その言葉は飲み込んだ。
何故って、自分も投げられたくないからだ。
余計な被害は受けたくない。長年の柚との付き合いですでに学習済みなのである。