inosence


がらっ。


扉がすんなり横に滑った。

思いがけない出来事に目が点になる。


……え?なんで?


鍵がかかってないということは恐らく、誰かいるということ。だ、誰がいるんだろ?

お邪魔しまーす…とおずおずと中へ入ってみると、奥のほうに人影があった。

誰だかわかった途端、頭の中がまっしろになる。


数学の授業のときは黒いスーツだったそのひとはシンプルな私服になっていて、白く長い左手に絵筆をもちながらこちらを見ている。



「君は確か…山吹さんだったね」



夕暮れの光がさしこむ教室に浸透する、穏やかで低い、大人の声。

その青い瞳は間違えようもなく久堂先生だ。

どうして、ここに?
名前覚えてくれてうれしいけど、それよりもどうしてここにいるの??

わたしの頭のうえに幾つもはてなマークが浮かぶ。


いつまでもぽかんとしていたからなのか、久堂先生が持っていた筆を近くのテーブルに置いて、困ったように笑いかけた。


「大丈夫かい?驚かせちゃったね」

「えっ……あ」

「…風邪を引いたりは、してない?」


あわてて首を横に振る。
先生は安心したようにそっと目を細めた。


「なら、よかった。授業のとき顔を赤くしてぼんやりとしてたから、具合が悪いのかと思ってたんだ」


やさしい。

今日はじめて会ったのに、たくさんいる生徒のひとりのことを心配してくれてたんだ。

先生の言葉が透き通った水に波紋を描くように、やわらかく響いてくる。

そのおかげで緊張がすこしずつほぐれていく。



「……先生は、外国人なんですか?」


ぽつりと、質問が口からこぼれた。


「ああ、僕はフランス人と日本人とのハーフなんだ」


さらに先生は言い加える。


「日本で生まれてずっと住んでたから日本語は得意でね。発音に違和感がそんなにないだろう?」

「…はい」


頷くと、先生はうれしそうに微笑んだ。

授業のときはスーツで敬語だったから、なんだか印象がちがう。

まだ緊張するけど、なんだか話しやすい。


「そうだ、こっちにおいで?よかったら僕の描いた絵をみてほしい」


先生の描いた絵?

とくんと興味が湧く。


わたしは入ってきた扉から、奥の先生のところまですこしためらってから、歩き出した。

そばに行くまでやさしい表情で見守ってくれる。

歩いていくとだんだん、大人っぽいやわらかなコーヒーの香りがただよってくる。


その先生の近くに、イーゼルに置かれた水彩画があった。

幾重にも重なった済んだ色で丁寧に描かれたものは、海の中で泳ぐイルカに貝殻や珊瑚だった。






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