inosence
「すごい、きれい…」
絵をみつめたままそう呟くと、先生はうれしそうに微笑んだ。
「ありがとう。僕は水彩画を描くのが趣味でね。こころまで濁りなく透き通るような感じがして好きなんだ」
好きでたまらない、といった風にいきいきと語る先生。
ほかにも水色と緑色の組み合わせがお気に入りだとか、海などの自然を描くのがすきとか、いろいろ教えてくれた。
春の清らかな水のように、心地よい声が流れていく。
そんな先生の声がすきで、陽がほとんど落ちて窓の外が暗くなっていても、わたしは気づいていないふりをして話をきいていた。
「アクリルや油絵は色が濃すぎてね。水彩が一番なんだけど、不透明水彩は使わないんだ」
「ふとうめい?」
「そう。不透明水彩と透明水彩のふたつがあって、不透明はその名の通り、重ね塗りをすると下の色が上の色に隠れてしまう。だけど透明は下の色も残るんだ」
「なるほど…知らなかったです」
「慣れないうちは水加減など難しいかもしれないが、山吹さんもやってみないかい?」
「えっ!や、でも来週にテストありますし」
「そうだそうだ、忘れてた。でもそれなら…」
がらっ!
そのとき勢いよく扉が開く音がして驚き、ふたりして同時に振り向く。
茶色いショートカットに緑のチェック柄のマフラー。エミだ!
わわ、玄関で待たせていたことすっかり忘れてた。悪いことしちゃった…。
「風香おそいっ!…あれ、たしか…久堂先生?」
「こんにちは。君は……」
「うちは2年B組の朝比奈えみです。先生うちのクラスにも授業にきたじゃないですか」
「すみません、来たばかりでまだ顔と名前が一致してなくて」
先生は端正な顔で苦笑いした。
ふと感じる違和感。
…あれ?でもわたしのこと覚えていたよね?
やがて先生が窓をみて、いくつもの家屋に灯りがともってるほどすっかり暗くなっていることに気づく。
「もう5時…すみません、こんな遅くまで付き合わせてしまって。そろそろ帰りましょうか」
そうだ、帰らなきゃ。
楽しかった時間が終わり、なんだか少し残念な気持ちになる。
先生はテーブルに置いてあったマグカップをとり、冷めたコーヒーを一息に飲んだ。
こんな時間にカフェインとってだいじょうぶなのかな?わたしは夕方に飲んでも眠れなくなっちゃうけど…。
わたしはそんなことを考えてから、パタパタとエミのところへ走っていく。
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