短編集
男が急に立ち上がったから、彼の頭頂部と俺の顔がぶつかってしまった。こんなものは多分比べるものではないと思うが、絶対に俺の方が痛かったと思う。俺はぶつかった拍子にバランスを崩して尻餅までついてしまった。格好悪いったらない。
「ごめん、大丈夫か?」
「いえ、こっちこそすいません」
不意に手が伸びてきた。男が俺を引き上げようと伸ばしてくれたのだ。案外、白い腕。俺はその手を取って立ち上がると男に礼を言おうと口を開けた。だが。
「ははっ」
出たのは何故か可笑しな笑い声一つ。不思議と俺の顔には笑みが浮かんでいる。見知らぬ男に助けられたのがそんなに情けなかったのだろうか。いや、違う。可笑しいのだ。俺は玄関先で一体何をしているのだろう。馬鹿みたいだ。
「すいません、突然笑ったりして」
「いや、ははっ、仕方ないさ」
何が仕方ないのかは全く分からないけれど、俺は男の言葉を鵜呑みにして自分に言い聞かせた。この状況は仕方ないのだ。だから意図せず笑ってしまったことも仕方ない。あぁ、それよりも。
「あの、よかったら上がって下さい」
客人を前に俺は何で突っ立っているのだろう。
「俺じゃ、目当ての荷物がどれか分かりませんから」
「つまり、俺に探せって言ってるのか?」
「言い方を変えればそうですね。それに……」
物を把握して支配していたのは彼女だから、俺は自分の物でさえ配置を理解していない。そう付け足すと男はやんわりと笑ったまま俺の部屋に足を踏み入れた。玄関先で靴を脱ぐと小さな声でお邪魔しますと呟いてから男は進み始めた。
そしてしばらく辺りを見渡してから俺に向き直って「良い部屋だな」なんて変な褒め言葉をくれたりする。部屋は片付いていないから物凄く汚いのだけれど。
この人は律儀なのだろうか。だけど初対面の人間の部屋に足を踏み入れて、しかも今から部屋を漁ろうとしているのだから容赦はないみたいだ。
「片付けないのか、この部屋」
「あぁ、いえ。片付けたいのは山々なんですが」
「片付けたくない?」
「いや、出来ないんです」
俺の答えに適当な返事をした男はとりあえず空いているスペースに腰を降ろした。部屋を漁るのを躊躇しているのかも知れない。身体ではなく視線だけを動かして物の在処を確認しているみたいだ。まるで田舎者が都会にやって来た時みたいに。
「それにしても、あんた用心ないな」
「用心?」
「だって、あんた、俺の名前すら知らないのに部屋に上げたろ」
「あなたも俺の名前を知らないのに部屋に上がったでしょう」
「俺は強いから大丈夫なんだよ」
「俺も強いですよ。昔、剣道の全国大会で優勝しましたから」
なんて、見栄を張って嘘をついた。