短編集
01
日常とは簡単に崩れていくものである。
例えば昼間に食べたラーメンで火傷をした舌が中々治らなかったり、突然に魚類が食べたくなったり。崩壊の序章はそんな単純なものである。
そして無意識に家にあるカツオ節をむさぼる様になったら完全に重症だ。幾ら気をつけたって口の中は出汁で一杯になるだろう。これがしばらく続くと自分が何をしたいのか理解出来なくなり、自我を保つ事さえ怖くなってくる。だが、心配しなくても良い。時が経てば自然と気付くのだ。俺の場合もそうだった様に、頭に疑問が浮かぶはずだ。
……何か、猫に似てるな、と。
「猫又だな、そりゃ」
白昼の光を浴びながら森下さんはそんな事を言った。またいつものおふざけが始まったと思いながら、俺は「はぁ」と疑問混じりの相槌を小さく打つ。
彼はそんな俺を見て、何故か知らないが驚いた様な馬鹿にした様な表情をになった。
「猫又、まさか知らねぇのか?」
「知ってますよ。猫の化け物でしょ。尻尾が二本あるって言う」
「ありゃ長生きした猫の成れの果てだよ。化け物って言うな」
「じゃあ何て言えばいいんですか。ただの猫でもないし」
「妖怪だ、妖怪猫又。お前何も知らねぇんだな、木崎」
妖怪も世間一般じゃ化け物と言うのではないだろうか。何も知らないのは森下さんの方じゃないか。心の中ではそんな事を思っているのだが、俺はあたかも彼の知恵に感心したような反応をした。
彼は俺の予想通り、満足そうな物足りなさそうな笑みを浮かべる。
森下さん……いや、森下警部は生活安全課所属の警察だ。そして俺は彼のパートナーである。と言っても俺は新米も新米だから、森下さんには二枚舌があったとしても逆らえない。
今年の二月に四十の四年目を迎えた彼は、歳の割りに見た目は若い。そして歳の倍ほどの元気を持っている。
一張羅の黒いスーツは年に二、三回しかクリーニングに出さないらしく、いつもよれよれ状態。だがクリーニングに出した次の日には某国、シーレクレットサービスにも劣らない程の風格を現す。森下紀昭とはそんな男である。
「しかしまあ、家出人ってのは此処に来る定めなのかねぇ」
ネットカフェを見上げて呟いたのは、紛れもなく四十四のおっさんであった。しかし彼がそう言うのも無理はない。前回も前々回も家出人は同じネットカフェにいたのだから。
まさに此処は現代を代表する若者の巣窟。特に此処は二階で隠れやすく離された場所にあるので、余計に入りやすいのかも知れない。
「写真は持って来てるだろうな?」
「勿論です」
「よし、じゃあ行くか」
俺はカジュアルスーツのポケットを密かに確認する。そして森下さんに続いて若者の巣窟に繋がる階段を静かに上った。
今回署に届けが出た家出人は、御崎静香と言う女性。歳は二十六で職業は三流企業のオーエルさん。現在は市内で一人暮らしをしていると彼女の親は言っていたが、残念ながら誰かさんと同居中だ。
なんせ失踪届けを出したのは、恋人を名乗るその男なのだから。