短編集

「木崎!」



 怒りにも似た森下さんの叫びが聞こえて、俺は咄嗟に地面に落ちていた女の銃を拾い上げた。武器をなくした女を捕らえるのは容易であるが、それは森下さんに任せる事にする。

 そう言葉ではなく伝えると、彼は驚愕の表情を一変させ、警部の顔に戻った。半信半疑だったが伝わったらしい。森下さんが動き出したのを確認してから、俺は黒ワゴン車に突進した。

 最早、本能。
 余裕などなかった。




 ――カツオよりも美味い奴が、あの中にいる。





「ひぃっ、化け猫!」



 銃のグリップでワゴン車の窓を割った俺は、ネズミの姿を視界に捉えた。人語を喋り、適当にカジュアルな服を着こなす人間みたいな本物のネズミである。

 これが鉄鼠。


 俺は割れた窓に半身を押し込んでネズミに手を伸ばした。が、小さい奴には届かない。しかし俺の脳は先程とは違って考える意識もないうちに、次の策を思いついていた。届かないなら届く距離まで行けば良いのだ。車内に入ってしまえば良い。

 だが野蛮にも鍵を開けるという選択肢はなかった。



「動くなよ、ネズミ」



 俺は軽いジャンプだけで窓から車内に入る事に成功した。まるで自分ではないみたいに身軽である。割れた窓に接したと言うのに、怪我は腹に擦り傷を負ったぐらいで済んだ。



「あっちに行けよ!」



 ネズミは生意気にも俺から逃れよともがいている。その姿では反対側の扉を開ける事すら出来ないのだ。まさに袋のネズミである。それにしてもチョコチョコと動きやがる。動くなと言っているのに分からないのだろうか。

 俺は次第に苛立ちを募らせていた。だがネズミは俺の狙い通り、隅の方へ追いやられていく。俺はいい加減喰らってやろうと手を伸ばした――が、何故か向こう側の扉が開いた。

 ネズミが逃げてしまうではないかと思った瞬間、奴は誰かの手に捕まってしまった。俺はその手から視線を移し、捕らえた人を見る。



「木崎さん、食事よりも治療しなきゃ」



 眉を下げてそう言ったのは、ネズミを捕まえたのは……ネットカフェでバイトをしているはずの林田くんだった。彼が何故ここに居るのかと俺は疑問に思ったが、それよりも連れて行かれるネズミが気になって仕方が無かった。

 林田君の後を追いかけて車から降りると、女が森下さんによって捕らえられているのが目に入った。そして、何故かネズミも彼の手に渡されてしまう。



「木崎、お前……首が」



 首。



「おい林田、救急車を呼べ!」



 森下さんが再び怒声の様に叫んだ。俺は立ち尽くしたまま首に意識をやる。確かに先程からちりちりと痛んでいたが、救急車を呼ぶ程の事ではない。俺は至って平気だ。だが森下さんと林田くんの反応を見ていると、どうも普通ではない。

 俺は気になって自分の首に手を当てた。すると、べっとりとした何かが手にまとわりついた。気付けば目の前もぼやけている。ぐらり、と脳がぐらついた。



「……血?」



 視覚と感覚が現状を捉えた。突然の恐怖が俺の全神経を襲う。血が首にある。森下さんを狙っていたナイフか。俺が彼を突き飛ばしたから、ナイフは……俺の首後ろを斬ったのか。ぼやける瞳が次第に暗闇に落ちていくのが分かる。一筋の光さえ一点の灯りさえ見えなくなっていく。崩れ落ちた身体が、地面に叩きつけられた。

 だが痛いと思う間もなく俺の思考は何処かへ消えてしまうのだった。
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