短編集
自分がこの先どうなるか分からない。そんな思いが不安となり、俺を押し潰そうと尽力していた。ネズミを見つけた時の俺は今思っても異常だったが、あの時の俺はそれが普通だった。一つも異常とは感じていなかったのである。
それが何を意味するか分かるだろうか。
俺は意識以外の精神を猫又に奪われていた事になる。異常を異常と感じる事が出来ない猫又……恐ろしい妖怪になっていたのだ。
幸いにも、今回は森下さんや林田くんのお陰もあって無事に自我を取り戻す事が出来た。だが、もしも。取り戻せなかったら。次に猫の性が出てくるのが何時かも知れないのに、俺は抵抗の術さえ知らないのだ。独りの時に猫が出てきてみろ。俺は生きながらに妖怪となり、自我やものを思う心を失ってしまう事になるだろう。
そうなると最早、俺はこの世に存在しないものになってしまう。そして木崎一は猫又と言う新しい地位を確立するのだ。
あぁ、嫌過ぎる。
「林田、木崎の身体から猫を追い出す事は出来ないのか?」
俺の心を読んだらしい森下さんは、悲痛の面持ちでそんな事を尋ねてくれた。俺は今の暗い考えを思い返して、自嘲気味に少し笑う。らしくない、森下さんに心配されるだなんて。
「おい、心配してやってるのに何だ」
俺は彼の方を見て、笑った。彼も口元を緩めている。林田くんはその様子を見ながら小さ、本当に小さく息を吐いた。
「前世とは言わば木崎さんの歴史です。歴史は誰にも変えられない」
出来たとしても、その歴史の果てに存在するのはもう木崎一ではない。林田くんはそう続けた。四百年間もどこぞの妖怪の為に生き、各地を回ってその妖怪どもを守ってきた彼は、それが俺の定めなのだと言った。猫又である事が、俺の定めなのだと。
「これは死んだ人間を生き返らせる事が出来ないのと同じです」
言われてみればその通りだ。俺がこの世に生を受けた時点で、猫又を担ぐ事は決まっていたはずだ。木崎一が猫又なのだ。それを変えれば人も変わる。猫又は木崎一以外にはなれないのか。
「じゃあ俺は、黙って猫又に喰われるしかないのか」
「木崎」
「何ですか」
「俺が止めてやる」
森下さんはゆっくりと息を吐いた。
「俺はサトリだ。お前が猫になる前に、それをさとる事が出来る」
「……でも、森下さん」
「やる事がないと思ってたんだ。お前のお守りしてやるよ」
俺が言葉を紡ぐ前に彼は腕時計を見上げて立ち上がった。そうして「また来るわ」等と適当に言葉を残して去って行く。可笑しな人だ。出来ない事を出来ると言ってどうするのだ。止められるはずがない。さとった所で、問題が起きているのは俺の中身。彼はそれに触れる事すら出来ない。それをどうやって止めると言うのだ。
だが彼のお陰で暗い思考からは抜け出せた気がする。死にたくはないし猫に俺を乗っ取られるのもごめんだが、数分前ほど卑屈ではない。何とかなるだろうと思う自分がいるのだ。
それにしても。
「やる事がないなんて良く言ったものだ。警部の癖に」