短編集
ハチはその中から二千円、王様の手の上にそっと置いた。目当てのものが降ってきてさぞ嬉しいのか、王様は口元に笑みを浮かべてハチを見る。ハチは怯えながら財布を握り締めていた。
「足りるかよ馬鹿が。とりあえず二千円じゃねぇんだよ」
「と、とりあえずじゃ……あの、ごめんなさい」
「謝るくらいなら残りもさっさとこの王様に出せよ」
「お、王様、もうない、よ」
財布は空。
それを知らせるためにハチは財布をひっくり返して振った。数枚の小銭がじゃらじゃらと音を立てる他は音がしない。勿論開けたお札入れから降ってくる紙はない。
だが王様は気に入らないらしく、ソファーから立ち上がってハチの前に来ると、そのひ弱な姿を見下ろした。身長は然程変わらないはずなのに、ハチが両膝を埃まみれの床についているから大差になってしまっている。冷たく鋭い瞳がハチを捉える。
きっと許されない。
知っている。
この後どうなるかをハチは十分に知っている。だって毎日の事だから。
「おい、お前ら」
王様の声に残りの二人がコンテナと煤けた椅子から飛び降りて、ハチと王様に近づいて来た。
家来と言うにはふてぶてしく、友と言うにはぎこちない。彼らは王様の武力行使に見惚れた馬鹿共だ。自らに力がないから虎の威を借りていると言うわけだ。だが狐より頭が悪い。
ハチは一度だけ彼らが数学のテストで一桁の点数を取ってしまったのを目撃した事がある。まあ、そのせいで王様に目をつけられる様になってしまったのだけれど。
「やれ」
王様の非情な命令が下った。馬鹿共はハチに近寄り拳を挙げ、足を振った。重力と振り子の原理はその先にいるハチへ。
痛いと思う前に二回目が始まる。アリストテレスもガリレオガリレイもそんな事の為に科学を世に知らしめた訳ではないのに、馬鹿共は馬鹿だからそれに気付いていない。
三回目がハチに当たる瞬間、王様が喉を鳴らして笑った。二人の三回はつまり六回である。痛みは全身に広がっているけれど、六回とも激しい音はなかった。なぜか。人の身体が殴られる瞬間をバキ、だなんて擬音では表せないからだ。
ハチは切れた口の中の血を吐き出そうとして、止めた。埃だらけの床だって王様の所有地である。何を言われるか分からない。
「もういい、飽きた」
散々笑っておいてその言葉は酷い。
「なあハチ公、お前自分の立場分かってるか」
「う、うん」
「本当かよ、ハチ公」
王様がハチに寄ると馬鹿共はその道を開けた。ハチと同じ目線になるようにかがみ込んだ王様はその瞳をしばらくハチに向ける。
黒い闇が広がっていた。球体はどこまで続いているのだろうか。少々の白はいつ黒と分かれたのだろうか。この人はなぜこの目を持っているのだろうか。
どうして、どうして――ハチと同じなのだ。
「お前は俺に生かされてるんだ。分かるだろ」
「ははっ、違いない」
馬鹿の一人が笑った。
「俺が言えばこの二人は死ぬまでお前を蹴るぜ」
「お前もだろ」
馬鹿のもう一人が笑った。