短編集
01
俺には「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる妻がいる。恥ずかしくていつもありがとうなんて言えないし、大した事は出来ないけれど、俺は妻が大好きでこれからもきっと大好きだ。
だから結婚十年目の今日は急いで仕事を切り上げて妻の「お帰り」を耳に入れようと家まで走った。スーツがシワになろうが、誰かからの電話に気付かなかろうが関係ない。俺は急いだ。
――愛する妻の元へ。
いつもの様に家の鍵を開けて戸を開けた。薄暗い玄関の灯りを付ければ、暖かい家が俺を迎えてくれる。いつもより帰りが早いからか、夕飯の良い香りはしない。
俺は不意に腕時計を眺めた。六時。俺はいつも七時過ぎに帰ってくるから、夕飯にはまだ早いかも知れない。だけど今日はいつもと違う十年目。どんな飯が俺を待っているのだろうかと、考えただけで腹が鳴った。
「ただいま」
少しだけ控えめにそう告げる。妻が愛らしい声でお帰り、と言う声が――聞こえない。妻まで声が届かなかったのだろうか。俺は手にした妻へのプレゼントと、カバンを下駄箱の上に置き、靴を脱ぎながらもう一度同じ言葉を繰り返した。
今度は大きな声で。
だけれど妻からの返事はない。そういえば、リビングの電気が付いていない。何処かへ出かけたのだろうかと思いながら俺は荷物を持って家に上がった。リビングの戸を開けようとしてふと止まる。
そういえば昔、妻の双子の妹に驚かされた事があった。
あれは九年前。
結婚一年目の事だった。妻が買い物に出ている間に、妻の妹、まきさんが妻に扮していたのだ。
ベビーピンクのスカートにシャツ、胸元の主張しすぎないリボンが妻のお気に入りだった。まきさんはその格好でリビングの戸を開けた俺に向かって「どこで浮気してきたの」なんて言葉を吹っかけた。
前日が結婚記念日だったのをすっかり忘れていた俺に対しての怒りらしい。今思い出せば、良い思いで。まきさんは姉想いの優しい子なのだ。あの時は唖然としている俺の背後から妻が現れて「来年は忘れないでね」なんて事を笑いながら言って許してくれたのだっけ。
あれ以来俺は結婚記念日を忘れたことが無い。
そんな事を思い出しながら俺はリビングの戸を開ける。妻の妹はおろか、妻さえいない。九年前の様なドッキリを仕掛けられた訳ではなさそうだ。買い物にでも出ているのだろうか。俺は家を見渡した。片付けられた食器類、特に夕飯の用意を始めている雰囲気はない。
もしかすると妻はどこかへ出かけるつもりなのかも知れない。何せ今日は結婚十年目。二年目の記念日のリベンジだろうか。