短編集
結婚四年目の朝のこと。
その日、俺は会社で大事な会議を控えていたのだけれど寝坊をしてしまった。いつも起こしてくれる妻は来ない。と思ったら妻も隣で眠っていたのだ。
二人揃って寝坊するなんて、と俺はいらいらしながら妻を起こして会社の準備を始めた。妻は俺以上に慌てて寝巻きのまま朝ごはんを作りに階段を降りた。事件が起きたのはその時だ。
階段の一番上から妻が足を滑らせて落下していく様を見た俺は、眠気も会議も忘れて妻に駆け寄った。頭を打ったのか痛そうに起き上がる妻は、俺の手を振り払って朝ごはんを作りに行こうとする。
朝ごはんはもういいからと告げた俺に、妻はそれが私の仕事だからと笑う。朝寝坊に加えて妻が階段から落下した。会議には間に合わないし妻が朝ごはんを作るのも止められない。不甲斐なさを痛感した俺は会社へ帰りに同僚と飲みに出かけた。
家に帰ったのは十時過ぎ。妻はいつも寝ている時間なのだけれどその日は起きて俺を玄関で迎えてくれた。妻は結婚記念日だから、と言って泣きそうな顔をして朝の寝坊を俺に謝っていた。
あの日悪かったのは俺である。
だけど俺はあの時の事を一度だって謝っていない。階段を見ると思い出すのに謝れていないのが悔しい。十年目のこの際だ。後で謝っておこう。
階段を上がりきって、一番奥の物置部屋に行く。ここがベランダに続く唯一の部屋である。窓を開けてベランダを覗いてみる。
だけれど妻はいない。
洗濯物は既に取り込んである。やはり買い物に出かけたのだろうか。俺は窓を閉めて部屋を出た。そして二階の部屋を一通り見てから階段を降りる。風呂やトイレにいる気配もない。
とにかく俺は妻が帰ってくるまでリビングでテレビを見ることにした。時計を見れば、既に七時前だ。これだけ探していないのだから、もう待つしかない。
テレビをつけてスーツのジャケットをようやく脱いだ俺は、聞こえてくるニュースに耳を傾けた。今日も政治家の誰かがどこかで会合を開いているらしい。そして今日も誰かが殺されて、別の誰かを殺した犯人が捕まった。
いつもいつも同じ事の繰り返し。あぁ、繰り返しと言えば――結婚五年目のあの日も繰り返しだった。
結婚して過去四回の記念日がロクなものではなかったから俺は考えに考えて五年目こそ成功させようと考えていた。
と言ってもプランは特にない。
プランを立てるからいけないのではないかと思い始めていたからだ。だからその日は何もしなかった。まるで一年目の忘れたあの日みたいに何もしなかった。
だけど妻は記念日について何も言ってこなかった。もしかすると妻は記念日を祝うことを諦めてしまったのかも知れないなんて俺の脳は考える。考え出すと不安になって止まらない。
だけど何かをしようものなら、毎年の様に失敗して嫌な思い出しか残らないのではないかと思ってしまう。俺は繰り返し繰り返し考えて、ようやく妻に口を開いた。
今日は結婚記念日だけど、どうしようか、と。すると妻はにこりと微笑んで「そうだったわね、忘れてたわ」と笑った。
一年目に俺が記念日を忘れていたから俺は特に何を言うわけでもなく、五年目はそこから記念日を仕切りなおしたのだ。
何をしたっけか。
多分、何もしてないのだろう。あまり記憶に無い。ああ、どうしてだろう。妻との想い出は一つだって忘れないと決めていたのに――あれ、どうして俺はそんな事を改めて思ったりしたのだろうか。