短編集
01
水の中はきっと気持ちいのだろうな、と思う。水族館に行くと魚たちが気持ちよさそうに泳いでいるのを見てふとそんな事を考える。裏側で魚同士が喧嘩をしたり、飼育員がえさを忘れている可能性だってあるのに、私は毎回そんな事を考える。
魚になれたらいいのにと切に願った事さえある。
「願いを叶えてあげるよ」
気付いたら知らない子が目の前に立っていた。淡い紫の髪をした子が笑っている。この子の声以外に声はしないし、音もしない。ここがどこかも、私は知らない。
「ここは」
「水槽の中さ」
「でも水がないわ」
「水を入れたら死んじゃうよ」
「どういうこと?」
「キミが溺死したいなら別だけど」
理解出来ない。脳がついていかない。私は今まで何をしてたのだろうかと考える。家にいた。水族館の写真を見ていた。
いや、違う。
出かけていたんだ。水族館の写真を見て行きたくなったから、一人で水族館まで来て、そして考えていたのだ。
魚たちが気持ちよさそうに泳ぐから。
「あなたはだれ?」
「誰だと思う?」
「知らないわ」
「飼育員だよ」
「あなたが? 見えないわ」
女性なのか男性なのか。男なのか女なのか。成人なのか子どもなのか。それさえ分からないその子は、にやりと笑った。
「人は見かけによらないって言うから」
目が笑っていない。だけれど楽しそうに話している。矛盾している気がする。だけどそれを何に例えようにも言葉が出ない。
私は辺りを見渡した。水族館にこんな所があったのは知らなかった。一本の廊下がずっと奥まで続いている。後ろも同じだ。左右には大きな大きな窓が幾つもあり、そこから魚たちが泳いでいる様が分かる。
水圧から窓を守る為にある十字の格子はまるで十字架の様に並んでいる。
「そういえば、私帰らないと」
「帰れないよ」
「馬鹿な事、言わないで」
その笑みでそんな事を言うものだから、私は何だか不安になって廊下を歩き始めた。だけれど歩いても歩いても終わりは見えない。曲がり角の一つでもあっていいと思うのだけれど、それすらない。
怖い。
だけれど恐怖を感じるよりも、前に進まなければいけない。帰れないよ、その言葉が脳裏に焼きつく。どうしてそんな事を言うのだ。