涙と、残り香を抱きしめて…【完】

話し掛けられハッっとし
初めてその女に見惚れていた事に気付く。


「あ、あぁ…」


確かに新人だよな…


「そう。キツイ仕事だけど、頑張ってね。
でも、トイレのドアにもたれ掛るのはこれっきりにしてよね」


その言葉で、彼女がここの社員だと確信した。


シルバーのアタッシュケースを拾い上げ
エレベーターの有る方向に歩き出した女
でもすぐ足を止め振り返る。


「ねぇ、そのスーツ…マダム凛子でしょ?
よく似合ってる」

「えっ…」


フワリと笑い
エレベーターに乗り込むと
まるで幻だったみたいに居なくなった女


チラッと見ただけで
このスーツがマダム凛子のデザインだと分かるとは
恐れ入った。


優秀な社員も居るって事か…


「お待たせしましたー」


トンチンカン新井が無駄に明るい声でトイレがら出てきて
極上の笑顔を俺に向ける。


「じゃあ、次はデザイン企画部行きますか?」

「いや…もう案内はいい。
引っ越しの荷物が届くから帰るよ」

「えっ…そうですか…それは残念。
では、明日から宜しくお願いしま…」


トンチンカン新井が話し終える前に
俺はエレベーター横の階段を駆け下りていた。


もしかしたら、まだ居るかも…


階段を駆け下りている時の俺は
無心だった。
ただ、あの女が気になって仕方なかったんだ…


息も絶え絶えに一階に着くと、ビルを飛び出し辺りを見渡す。


「…居ない」


肩で息をしながら
自分の行動に失笑する。


必死で女を追い掛け、階段を駆け下りてくるなんて…
いつ以来の全力疾走だろう…?


らしくない。全く…どうかしてるな…





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