天使に逢えた日
差し出した彼の手にはTV裏の赤と黄色と白の配線コードが握られていた。
「よくご存知で」
キミは本当によく出来たアシスタントですな。ありがとう!と私は彼に手を合わせた。
よかった!これで来週の従弟のお休みまで待たずにすむ。引っ越しを手伝いたいけれど、その日は休みが取れないと申し訳なさそうに頭を掻いた従弟には次のお休みに電気関係の配線をしに来てもらうことにしていた。その日までしばらくテレビは見れないなと諦めていたから本当にラッキーだ。どうしても録画したかったドラマがあるのよね。あぁ!そうだそうだわ、ゲームだって今夜から出来るじゃないの~。嬉しい!と心中でガッツポーズをした。
家族に干渉されずに存分にゲームをしたりDVDを見たりしたかったのも一人暮らしを決めた理由のひとつだ。自室で何をしていようが文句は言わないけれど、やれご飯だから降りてこいだの、早く風呂に入ってしまえだの、いちいちうるさくて面倒くさいのだ。
「ありがとーう!嬉しい~!」
人間心底嬉しくて舞い上がっている時は思いも寄らない行動をするらしい。気づいたら阿達くんに抱きついていた。
「うおぅ?!」
「あ、ごめん!」
慌てて離れようとしたのに、離れられない。なぜか彼の腕がしっかりと私を抱きしめていた。
「あの、阿達クン?!」
「びっくりしたな~」
という割には驚く風でもない彼は愉しそうに笑っていた。
「ご、ごめんなさい」
「ええよ、気にせんで」
「えっと、阿達クン?」
「ん?」
意味ありげな笑いを浮かべたままの彼は私を離す気配はなかった。
「離して?」
「どないしようかなぁ」
「ふざけてないで。お願い」
「ふぅん」と笑いながらじっと私を見つめている視線がいつもより近い。ドキドキと鼓動が早くなった。
「・・・なに?」
「香夏子サンって意外と小さかったんやな」
「は?」
思いがけないことを言われた私が彼を見つめる顔はよほど間の抜けた顔をしていたのか、あははと小さく笑った彼は「いつもは、このへんに頭があるもんな」と右手を自分の口元に平行にあてた。今はヒールをはいていない分、それより下に私の頭がある。ちょうど彼の顎の下に収まるくらいの位置だ。
「何や 可愛いな」
身長が165センチの私に小さいなんて言う人もいなければ、今みたいに見下ろされる事もない。子供の頃から身長が高くて運動もできたので中学生になるまでは何をやっても男子と対等かそれ以上にこなせた。私に勝てない男子からは悔し紛れに「男女」なんて仇名で呼ばれていたけど、悔しかったら勝ってみなさいよ!ひ弱!と仁王立ちして跳ね除けた。とはいえ、悪意のある仇名にはやっぱり傷ついた。悔しさと悲しさと恥ずかしさと切なさが綯い交ぜになり膨らんで負けず嫌いに拍車をかけた。こんなバカ男子には負けたくない、絶対に負けない!と誓った。そしてスポーツだけではなく勉強もした。つけこまれる隙をつくりたくなかったからだ。
そんな負けず嫌いは大人になっても相変わらずだった。「女だから」とか「だから女は」と言われるのが大嫌いで、女というだけで最初から見下していることが許せなかった。無性に腹が立った。だからそう言われないように、言わせないように、懸命に努力してきた。そうしているうちに段々と負けず嫌いとか意地とか、そういう子どもっぽい思いは消え、人間として社会人として平等に対等に正当な「評価」をしてもらいたいと思うようになった。その結果、今や仕事上では一目置かれている。それは望むところではある。でもお蔭で「可愛げがない」と言われることがあっても「可愛い」などとは、もう随分と言われた事がない。
「やめてよ、そんな」
続けざまの思いがけない言葉にうろたえてしまった。免疫がないのだ。どうリアクションすればいいのかわからない上に目の前に見える彼の形のよい薄い唇に心臓がさらにドキドキとうるさくなって軽く眩暈がする。思わず俯いてしまった。
「あの・・・ 離して」
自分でも驚くほど声が掠れて語尾は消え入りそうだった。いやだ。私どうしちゃったんだろう?こんなの私らしくない。
「ほんまにほんまモンの香夏子サン?いつもとは別人みたいやな」
くすくすと笑いながら、私を抱きしめる腕の力が強くなった。彼の着ているセーターの浅く開いたVネックから見える鎖骨に私の唇が触れてしまいそうだ。
うそうそ!やだ、どうしよう。
「阿達くん~おねがい~」と情けない声を上げた私に「ほんまにに別人みたいや」と笑いながら少しだけ私を抱く力を緩めると「こんな風に、髪を下ろしてるせいかな」と囁いて片手で私の髪を梳きはじめた。
こめかみからうなじへ。うなじから毛先へ。何度も繰り返し流れるように髪を梳く指先の心地よさに強張っていた身体からだんだん力が抜けていき、自然に瞼が下りてきた。
「気持ちええの?」
うん、と小さく頷いた私に彼が鼻で笑って囁いた。そういう顔してるよ、と。
止まることなく滑らかに動くその慣れた手つきにうっとりと酔いながらも、これまでの女性経験が透けて見えるようだと心が妬けた。そうよね。こんなに素敵な男性を女の子が放っておくはずがない、と額をそっと彼の胸に付けて小さなため息を落とした。私と出会う前の、私の知らない過去や経験に嫉妬をしてどうなるものでもない事くらい解っているのに胸に苦く広がっていく感情を抑えきれない。過去だけじゃない。彼にはもう大切な人がいるかもしれない。その女性を見る彼の瞳は私を見つめるそれとは比べ物にならないほど熱く、触れる手はもっともっと優しいのかもしれないと思うと、広がっていく苦い感情が胸の外へと溢れ出そうになった。目を開けて彼を見上げた私の顔が切なさに歪んでいるのが自分でもわかった。
「もう・・・ そんな顔で見上げんといて」
「だって」
「言うてまうやん」
「なに?」
ふ、と小さく息を吐いた彼の視線が私の瞳を真っ直ぐに捉えた。