天使に逢えた日
いやまさかそんなことは、とは思うけれど
そのまさかが現実になるのが犯罪だ。
引越しをすることはまだ誰にも告げていない。
隠すつもりはなかったけど、嬉しがって話すことでもない。
新婚の新居や、社会人一年目で一人暮らしを始めたというのなら
言いたくて仕方がないかもしれない。でも30を越えて実家を出ても
珍しくもなければ、自慢にもならない。
できればあまり言いたくないというのが本音だ。
会社には事務手続き上、報告はしなければならないが
週明けでいいだろうと思っていた。
だから 同僚も上司も知らないはずなのにどうして彼は知っているのか。
しかもここの住所まで・・・そう思うと、ぞっとした。
立ち上がった私は、まだ彼に取られたままだった手をそっと離して
一歩後ずさって身構えた。
「香夏子サン?」
私の様子を訝しげに伺う目の前の彼は阿達裕二。
職場の同僚で2年後輩だ。私のアシスタントをしてくれている。
彼との人間関係はいたって普通で穏やかに良好だと私は思っている。
お互いに恨みをもつようなトラブルになったことはないし
ストーカーされる覚えは私にはない。でも彼の方にはあるのかもしれない。
ストーカーとはそういうものだ。
「えっとあの、そのまま動かないで」
「どないしたん?」
「いいから!」
「・・・あぁ そうか」
彼の訝しげな視線が悪戯なそれに変わった。
「すっぴんやから、見られたくないんやな」
「違っ」
「大丈夫。まぁ・・・何とか見られる、かな?」
あはは、と声を上げて笑った阿達くんは
いつも通りに朗らかで屈託のない彼だった。
ストーカーをするような人にはとても見えない。
私の勘違いだろうと体の強張りを解いた。
「で!どうして?」
「何が?」
「なんで引越ししたのを知ってるの?」
「せやかて見えてしまったもんはしゃーないというか」
別に覗いてたんやないで?と彼は腕を組んだ。
「だから!なんで見えたの!?」
「だってこっち、俺の部屋」
彼が指したのは我が家の向かいのドアだった。
嘘でしょう?!
唖然としたまま立ち尽くす私にニッと笑った彼が言った。
「よろしゅう。お向いさん」