結婚白書Ⅳ 【風のプリズム】
奥の部屋に通されたが そこは引越しの最中であることも感じられない空間で
ソファにゆったりと腰掛けた仲村さんは 僕に大学の様子などあれこれと
聞いてきた
途中からコーヒーを運んできた奥さんも加わり 父たちの家族の様子を
聞いては目を細めている
「三番目の娘が高校入学だったの 編入試験も考えたけど
今度の地方勤務は2年だけだと聞いて 単身赴任をしてもらうことにしたの」
「この歳で初めての一人暮らしだよ だけど 自由と不自由
どっちも楽しみでね」
「まぁ そんなこと言って 家族の声が聞こえないと寂しいという人なのに
私がちょくちょく行きますから その間は我慢してくださいね」
「僕の父も単身赴任していたんですよね
でも母は 赴任先にはまったく行かなかったと聞いています
父は寂しかったでしょうね」
いつ話し出そう いつ切り出そうとずっと考えていたが 和やかな仲村さん一家
の様子に話を持ち出せずにいた
仲村さんにしても 今日の訪問の目的も気になっていたはずだ
電話口で 父のことで聞きたいことがあると曖昧な言い方をした僕に
何も聞かずに時間を作って会ってくれたのだった
もしかして ここを訪ねた意味が二人にはわかっていたのかもしれない
僕の投げかけに さほど驚きもせず静かに会話が続いていった
「寂しくなかったといったらウソだろうね
だが 家庭にはそれぞれ事情があるからね」
「聞いています 母は仕事を始めた頃だったそうです
よほど忙しかったのでしょう
僕も父の赴任地に行ってみたいと言ったことがありましたが
時間がないからと母に言われたのを覚えています」
「お母さんが 料理のお教室を始められた頃だったわね
生徒さんがいらっしゃるから
なかなか休めないとお聞きしたことがあったわ」
「遠野君も仕事が忙しい時期だった 大きな会議の準備を抱えていてね
東京の自宅にも出張のついでに寄るくらいだったはずだ
君も寂しかっただろう」
「いえ僕は……父の不在があたりまえになっていましたから」
ここまで話した頃 奥さんは仲村さんに目配せすると そっと部屋を出て行った
奥さんを見送ると 温かいうちにどうぞと 話の先を急ぐ僕へ
落ち着いて話せと言うようにコーヒーを勧めてくれた
ブラックのまま口にしたが 香りほど苦味はなく 仲村さんの家族のように
まろやかな口当たりがした