口吸い【短編集】
半年前なら、彼はこんなことをしない。
半年前なら、ことさらに優しかった。
半年前なら、柔らかい笑顔を漏らす人だったのに。
誰もいない廊下には革靴の音とヒールの高い音が不規則に奏でる。
廊下の壁にその手首を縫い止められた。
まるで、標本に射止められた昆虫のように。
「なんで、お前は………っ」
ぽとり、と落ちた雫に目を疑った。
いつも、強気だった、あなたが、私の前で、泣いている。
泣いている。
なにも言えなかった。
ここまで追い込んでいたのは私だ。
きっと、彼は私が別れた理由を知っている。
私が、誰と結婚したのかというのも、知っているのだ。
あぁ、泣きそうだ。
私も。泣かないけれど。
誰もいなくて良かった。
私は小さく触れないように彼の額にキスをした。
泣いている、彼に、私はぺらぺらの言葉を吐いた。