この空のした。〜君たちは確かに生きていた〜
――――後日談ですが。
西軍がなだれ込むようにして城下へ進入してきたのは、翌日 八月二十三日の朝でした。
あまりにも早すぎる敵兵の進攻を予測できなかった軍首脳はあわてふためき、ここで初めて藩士婦女子は城へ入るよう警鐘が鳴らされました。
武家の女達にとってそれは不意打ちであり、急ぎ避難を始めるも城下は混乱する民で溢れかえり、
砲弾が飛び交うなかようやく入城するという有様でした。
敵が城下まで迫るという危機感が薄かったのか、わが藩の軍首脳はいざ籠城戦という準備をなされてはおりませんでした。
そのため御米蔵の貯蓄米を敵方に奪われたり、郭内にある、軍事病院となっていた日新館で療養していた怪我人を、お城まで運び出すことができず、見殺しにするという事態まで起きてしまい、
その様はまさに、阿鼻叫喚の地獄絵図のようでした。
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