この空のした。〜君たちは確かに生きていた〜
あとがき
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました。
本作品は、白虎隊を含む会津藩の悲劇を少しでも深く知っていただきたいというのももちろんですが、
子供の頃 初めて何かを見て感じたときの感動の煌めき、そして純粋な心を、少しでも思い出せるようなそんな作品にしたいと望んでおりました。
そして 自分の力ではどうしようもない災難に遭遇したとき、悲しみを乗り越え生き抜いてゆく人間の強さを表現できたらと思い、何とか書き上げましたが、
素人の私には、残念ながらあまりよく表せなかったように思います。
本作品ではなんだか中途半端な終わりかたになってしまいましたが、この先のゆきの生きてゆく姿が、私の中ではまだ終わっていないので、
番外編なんかでもう少し書きたいと思い、とりあえずここで区切りといたしました。
私が自刃した白虎隊士のひとり、永瀬 雄次さんの存在を知ったのは小学6年生の頃でした。
(作品では『雄治』としています。これは飯盛山の墓石に刻まれている字で、私もこちらの字が好きなので採用しましたが、本来は『雄次』が正しいようです)
なぜか 一目(?)で、彼のことが好きになり、以来ずっと その気持ちは色褪せることがありません。
作品の設定は、当時 思い描いていたままで書きましたが、今回 この作品を書くにあたって、昔 集めた資料+新しい資料を読み漁り、改めていろいろと知ることができました。
そして この作品が出来上がった頃には、白虎隊だけでなく魅力ある会津武士の方がたが大好きになりました。
会津藩の悲劇は『会津に人なし』だからだと言われているそうですが、そんなことはありません。
(この言葉は『会津に降人なし』=会津藩士は絶対に屈服することがないという、称える意味での言葉もあるそうです。ですがそこらへんは、いろいろと複雑なので割愛します)
けれど、たくさんの思惑と恨みとそして未来への希望を託して、戊辰戦争は大きく膨れ上がり、結果 たくさんの悲劇を生んだことはとても残念なことのように思います。
勉強不足+頭の悪い私には、未だにあの戦争の意味がよくわかりません。
納得いかない、と言ったほうが 合っているのかもしれません。
ちなみに会津藩のこの後ですが、藩士は各場所での謹慎が許されたあと、容保さま実子の容大さまを藩主に斗南3万石が与えられます。
八十治さんの家族は容大さまに追従し、斗南へ移住したようです。
雄次さんのお父上さま、永瀬 丈之助さんは、西軍に捕らえられたあと脱獄に成功し、藩士達が謹慎している猪苗代までたどり着き、そこで息子の自刃を知ったといいます。
その丈之助さんも、斗南へ移ったようです。
白虎隊の悲劇は、尽忠報国の手本として明治政府に利用されたといいますから、なんだか複雑ですよね。
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