長靴をはいた侍女
おまけ:cinqとsixの間の物語
外は、朝からひどい雨が降っている。
ファウスはいつにも増して、天気が気になっていた。雨の日に手紙を配達してくる変わり者がいるのだ。そしてそれは、小雨だろうが大雨だろうが変わらない。
しかし、今日は──雷雨。
昼間だというのに、空は分厚い雲に真っ暗に覆い隠され、時折激しい雷光と雷鳴がつかず離れずの時間差で繰り返されている。伯爵家の侍女たちは、仕事をこなしているものの、激しい光や音の瞬間は一瞬身をすくめて、不安そうな目を窓の外へと向けていた。
ファウスは身をすくめることはなかったが、心配を抱えていないわけではなかった。手紙を配達する変わり者のせいだ。
「あー……今日は、その……来るのか? アレは?」
伯爵の部屋で報告事項を済ませたファウスが下がろうとした時、若き主人は非常に言いづらそうに、そんな言葉を切り出した。
ここで「来ないでしょう」と言ってしまえれば、どんなに楽だろうかと彼は思った。そうであれば、自分は心配をしなくて済む、と。
しかし。
「……おそらく、来るかと思われます」
言いたくない重い口を開けて、ファウスはそう言った。
途端、「そうかっ……あ、いや……コホン」と、嬉しさに我を忘れかけた主人が、己の失態に気づき自制していく光景が、彼の目の前で展開された。
勿論、忠実な執事としては、そんな主人の失態を見ないふりをする。問いかけられない限り、無駄な言葉も投げかけない。「さがってよい」という言葉が発せられるまで、ただ真っ直ぐに立っているだけである。
「失礼致します」
そして主の部屋を出たファウスは、扉を閉ざしながら小さな吐息を漏らしていた。さっき答えた言葉が、自分の上に重くのしかかるからだ。
彼女は、来る。
風が吹こうが雷が鳴ろうが、雨が降る限り必ず来る。これまでがそうであったし、これからもそうであるとファウスは信じていた。
彼にとってそれは──辛い信頼でもあった。
その信頼と心配の上で、ファウスは玄関付近を行きつ戻りつする。強い雷雨の音に、小さな音を聞き逃さないように、だ。
そして、こんな天気だというのに、遠くで門番が門を開ける音が彼の耳に届いた。息を整えながら、彼は迷うことなく玄関に近づき、まっすぐに立って扉を見る。
二回のノック。
ノックを追いかける「こんにちは、手紙を持ってきました」という女性の声。
無事だったという安堵と、彼女はやはりきちんと仕事をやり遂げるのだという更なる信頼が積み重なる音が、自分の中に広がるのをファウスは感じた。
はやる気持ちを抑えながら、彼は扉を開ける。
灰色のレインコートも、そこから出ている白い顔も黒い前髪もびしょ濡れだった。風向きが悪いようで、扉を開けると玄関の中にまで雨が入ってこようとする。
それでも彼女はいつも通り、扉の外でレインコートを脱ぎ始めようとする。そんな悠長な動きでは、脱いでいる間にせっかく守った服が濡れてしまうだろう。
「入りなさい」
ファウスは言った。
「で、でも、ズブ濡れですから……」
配達の女性は、戸惑っている。
「入りなさい。玄関なら掃除をすれば済む。しかし、ロニ……貴女は私の主人の返事を持って帰る大事な仕事がある。貴女に風邪をひかせては、応対した伯爵家の名折れだ」
そんな彼女──ロニに、ファウスはピシャリと言った。
すると。
ロニは、おかしそうにふふふっと笑った。冗談も何も混ざっていないファウスの言葉の、一体どこがおかしかったのか、彼には分からなかった。
「では、お言葉に甘えて……失礼します」
笑顔のまま、彼女は多くの水を滴らせながら玄関へと入ってくる。
その頃には、ファウスの主は階段の途中まで下りてきていた。ここまで、いつもとは違うやりとりが挟まれたために、主の待ちきれない動きの方が速かったのだ。
それでもロニは、レインコートを脱ぎ、ハンカチを取り出して綺麗に拭く儀式を止めることはなく、耐えられなくなった主が、ファウスの斜め後ろで足をカツカツと二度踏む仕草をする音が聞こえた。
そんな中、ついに手紙が渡された。ファウスが受け取った直後には、もう手の中にはなかったし、主は階段へと駆け出していた。
彼は、主人を振り返ってため息をついたりはしなかった。
雷雨をものともせずに手紙を運んだロニが、もう一通の手紙をファウスに差し出すのを知っていたからだ。彼はそれを、微かに高揚している手袋の手で受け取り、上着の中にしまいこむ。
ファウスからロニに宛てた手紙は、主人の返事を渡し終えた後に、ロニに渡すようになっていた。
ささやかに続く、雨の日の小さな文通。
ロニの手紙を受け取ったファウスは、彼女を暖炉のある応接室へと案内する。
その途中。
「雷は、恐ろしくはなかったか?」
低い声で、彼はロニに聞いていた。
そうしたら、彼女は少し困ったような表情を浮かべて、「恐ろしかったです」と、答えた。
それならば、雷の日くらい配達を休んだらどうかとファウスは言いかけた。それはそれで、口が重くなりそうな言葉であったが、彼は何とか言おうと努めたのだ。
しかし、ロニが。
「でも……この長靴をはいて、こちらに手紙を届けるのは、お仕事というだけではなく楽しくもあるので……やめられないのです」
少し恥かしそうに頬を染めて、先にそんなことを言ってしまうものだから、ファウスは、己の重い口を開けることが出来なくなってしまった。
もはや彼に出来るのは、ふたつだけ。
ひとつは、窓の外で忌々しく光る雷が、少しでも早く遠ざかることを祈ること。
もうひとつは。
主人の返事が書き上がっても、実際に外の雷が遠ざかるまで、いつもより長く彼女を応接室で待たせることだった。
ロニの待ち時間を埋めるものと言えば、温かいホットチョコレートと、ファウスとのささやかな会話しかなかったのだが──彼女はちっとも退屈そうではなかった。
『おまけ1 終』
ファウスはいつにも増して、天気が気になっていた。雨の日に手紙を配達してくる変わり者がいるのだ。そしてそれは、小雨だろうが大雨だろうが変わらない。
しかし、今日は──雷雨。
昼間だというのに、空は分厚い雲に真っ暗に覆い隠され、時折激しい雷光と雷鳴がつかず離れずの時間差で繰り返されている。伯爵家の侍女たちは、仕事をこなしているものの、激しい光や音の瞬間は一瞬身をすくめて、不安そうな目を窓の外へと向けていた。
ファウスは身をすくめることはなかったが、心配を抱えていないわけではなかった。手紙を配達する変わり者のせいだ。
「あー……今日は、その……来るのか? アレは?」
伯爵の部屋で報告事項を済ませたファウスが下がろうとした時、若き主人は非常に言いづらそうに、そんな言葉を切り出した。
ここで「来ないでしょう」と言ってしまえれば、どんなに楽だろうかと彼は思った。そうであれば、自分は心配をしなくて済む、と。
しかし。
「……おそらく、来るかと思われます」
言いたくない重い口を開けて、ファウスはそう言った。
途端、「そうかっ……あ、いや……コホン」と、嬉しさに我を忘れかけた主人が、己の失態に気づき自制していく光景が、彼の目の前で展開された。
勿論、忠実な執事としては、そんな主人の失態を見ないふりをする。問いかけられない限り、無駄な言葉も投げかけない。「さがってよい」という言葉が発せられるまで、ただ真っ直ぐに立っているだけである。
「失礼致します」
そして主の部屋を出たファウスは、扉を閉ざしながら小さな吐息を漏らしていた。さっき答えた言葉が、自分の上に重くのしかかるからだ。
彼女は、来る。
風が吹こうが雷が鳴ろうが、雨が降る限り必ず来る。これまでがそうであったし、これからもそうであるとファウスは信じていた。
彼にとってそれは──辛い信頼でもあった。
その信頼と心配の上で、ファウスは玄関付近を行きつ戻りつする。強い雷雨の音に、小さな音を聞き逃さないように、だ。
そして、こんな天気だというのに、遠くで門番が門を開ける音が彼の耳に届いた。息を整えながら、彼は迷うことなく玄関に近づき、まっすぐに立って扉を見る。
二回のノック。
ノックを追いかける「こんにちは、手紙を持ってきました」という女性の声。
無事だったという安堵と、彼女はやはりきちんと仕事をやり遂げるのだという更なる信頼が積み重なる音が、自分の中に広がるのをファウスは感じた。
はやる気持ちを抑えながら、彼は扉を開ける。
灰色のレインコートも、そこから出ている白い顔も黒い前髪もびしょ濡れだった。風向きが悪いようで、扉を開けると玄関の中にまで雨が入ってこようとする。
それでも彼女はいつも通り、扉の外でレインコートを脱ぎ始めようとする。そんな悠長な動きでは、脱いでいる間にせっかく守った服が濡れてしまうだろう。
「入りなさい」
ファウスは言った。
「で、でも、ズブ濡れですから……」
配達の女性は、戸惑っている。
「入りなさい。玄関なら掃除をすれば済む。しかし、ロニ……貴女は私の主人の返事を持って帰る大事な仕事がある。貴女に風邪をひかせては、応対した伯爵家の名折れだ」
そんな彼女──ロニに、ファウスはピシャリと言った。
すると。
ロニは、おかしそうにふふふっと笑った。冗談も何も混ざっていないファウスの言葉の、一体どこがおかしかったのか、彼には分からなかった。
「では、お言葉に甘えて……失礼します」
笑顔のまま、彼女は多くの水を滴らせながら玄関へと入ってくる。
その頃には、ファウスの主は階段の途中まで下りてきていた。ここまで、いつもとは違うやりとりが挟まれたために、主の待ちきれない動きの方が速かったのだ。
それでもロニは、レインコートを脱ぎ、ハンカチを取り出して綺麗に拭く儀式を止めることはなく、耐えられなくなった主が、ファウスの斜め後ろで足をカツカツと二度踏む仕草をする音が聞こえた。
そんな中、ついに手紙が渡された。ファウスが受け取った直後には、もう手の中にはなかったし、主は階段へと駆け出していた。
彼は、主人を振り返ってため息をついたりはしなかった。
雷雨をものともせずに手紙を運んだロニが、もう一通の手紙をファウスに差し出すのを知っていたからだ。彼はそれを、微かに高揚している手袋の手で受け取り、上着の中にしまいこむ。
ファウスからロニに宛てた手紙は、主人の返事を渡し終えた後に、ロニに渡すようになっていた。
ささやかに続く、雨の日の小さな文通。
ロニの手紙を受け取ったファウスは、彼女を暖炉のある応接室へと案内する。
その途中。
「雷は、恐ろしくはなかったか?」
低い声で、彼はロニに聞いていた。
そうしたら、彼女は少し困ったような表情を浮かべて、「恐ろしかったです」と、答えた。
それならば、雷の日くらい配達を休んだらどうかとファウスは言いかけた。それはそれで、口が重くなりそうな言葉であったが、彼は何とか言おうと努めたのだ。
しかし、ロニが。
「でも……この長靴をはいて、こちらに手紙を届けるのは、お仕事というだけではなく楽しくもあるので……やめられないのです」
少し恥かしそうに頬を染めて、先にそんなことを言ってしまうものだから、ファウスは、己の重い口を開けることが出来なくなってしまった。
もはや彼に出来るのは、ふたつだけ。
ひとつは、窓の外で忌々しく光る雷が、少しでも早く遠ざかることを祈ること。
もうひとつは。
主人の返事が書き上がっても、実際に外の雷が遠ざかるまで、いつもより長く彼女を応接室で待たせることだった。
ロニの待ち時間を埋めるものと言えば、温かいホットチョコレートと、ファウスとのささやかな会話しかなかったのだが──彼女はちっとも退屈そうではなかった。
『おまけ1 終』