203号室の眠り姫
青空が唐紅に染まりはじめるころ、一家は家路についた。
「いやー、楽しかったね」
「たまには、ゆっくりするのもいいものね」
夕陽に沈む、閑散とした住宅街。
すみれは空を仰いだ。
青と赤の織りなす劇的なグラデーションのなかで、カラスが一羽、弧を描いて飛んでいる。
「あしたも、晴れるといいね」
あしたも、晴れますように。
あしたも、皆で過ごせますように。
「あっちー。母ちゃん、コンビニでアイス買ってこーよ」
額の汗を拭うヒカル。
すみれが応えた。
「だめ。冷蔵庫にまだ残ってたでしょ。家に着くまでガマン!」
「えー、姉ちゃんのケチ!」
そう言ってヒカルは不満げにそっぽを向いた。
ノラ猫だろうか、やせた黒い猫が前を横切る。
交差点の青信号が点滅をはじめた。一家はそこで立ちどまり、待つことにした。
母が口をひらく。
「晩ご飯は、なにがいい?」
こたえる者は、もういなかった。
甲高いブレーキ音に気づいた時には、もう遅かった。一台のトラックが車道からおおきく外れ、歩道にいるすみれ一家に突っ込んだのだ。
すみれは、置かれた状況を理解できなかった。ただ漠然と、己の死を予感した。
予感しながらも、どうすることもできずにいた。
そのときだった。
すみれの背を、母のあたたかい両手が強く、強く、押した。
世界が、時間が。スローモーションになったようだった。
それはほんの一瞬の出来事にすぎなかったが、すみれには永遠に続くかのように思えた。
振り返ると、そこには家族の姿。
次の瞬間には巨大な鉄の塊にはね飛ばされ、帰らぬ人となるであろう、家族の最期の姿。永遠の静寂のなか、母の唇がゆっくりと、言葉を紡ぐ。
ーーーーい、き、て
待って。
いかないで。
あなた達を失ったら、わたしは。
永遠は終わりを迎え、残酷な時は目まぐるしい速度で動きだす。
わけも分からず、すみれは家族のほうに手をのばした。
ーーーいかないで。
わたしも一緒に、連れっていって。