瑛先生とわたし
車に乗せてもらいながら 飲みに行こうとわがままを言った私に
二十歳になったばかりの彼は 「わかった」 と応じてくれた
彼が案内してくれたのは 学生が行く賑やかな居酒屋ではなく
どうして彼がそんなところを知っていたのか 今もってわからないが
マスターがひとりでやっている小さなバーだった
マスターに勧められたカクテルを飲み 体が温まってくると舌も滑らかに
なってきた
「私が何をしたって言うのよ アイツが悪いんだから 別れて清々してるのよ」
なんて粋がって飲んでいたはずなのに 私はいつのまにか涙を流して
グラスを持っていた
瑛君は 私が何を言っても 「うん そうだね」 と否定せず
店を出て路地裏でまた泣き出した私に 静かに語りかけた
「悔し涙を流すと それだけ心に隙間ができて
そこに新しい幸せがくるそうですよ」
「へぇ そうなんだ 新しい幸せか いいわね その言葉
ねぇ 私にもくるかな その 新しい幸せっての」
「もちろん 菜々子さんだったら必ず
こんな素敵な人 なかなかいませんんから」
「あら 本当にそう思う? じゃぁ 私 瑛君でもいい
ねぇ いいでしょう?」
彼の腕を掴んで 私は難題を吹っかけた
「抱いて お願い 抱いて 寂しいの このままじゃやりきれないわ……」
心を吐き出した私を 彼は黙って受け入れてくれた
彼に抱かれたのか 私が抱いたのか そんなことはどうでもよかった
親友の弟で 4歳も年下で 小さい頃から知っている彼
おじいさまの影響で書道の道に進んで 大学でも書道を専攻して
学生の書道展では必ず入賞する 真面目な青年
けれど あのときの彼は 私が知っている どの瑛君でもなかった
大きな手で私を包み 大きな手で私を慈しむように抱いてくれた
「……藍ちゃんに悪いことしちゃったわね」
「そんなことありません 僕にとっては いつでも藍が一番ですから」
「まぁ 言ってくれること こんな状況でも?」
「そう どんな状況でも 一番は変わらないから」
私を胸に抱き 背中の窪みを確かめながら往復する手を止めることなく
僕の心は他にあるのだと言い切った
その偽りのない言葉に 私は彼の本当の優しさを感じた