瑛先生とわたし


書を始めたきっかけは 大きな犬を連れた女の子に出会ったことだった

それが のちに瑛君と結婚する藍ちゃんだった


学生のとき アルバイト先で覚えたカクテルの世界は 私を強烈に惹きつけた

学業そっちのけでのめり込み 気がつくと二年の留年 

結局は大学を退学することになった

親からは勘当同然になったが それでも何てことはなかった

いつかは自分の店を持とうとアルバイトを掛け持ちして 私にずっと

ついてきてくれた今の女房と懸命に働いた


何とか店を持てるようになったが 夜の営業だけでは生活ができず 

ランチも出せる店にした

その宣伝のチラシを配っているときだった

一軒の家の前で 見事な表札の文字に出会った


「花房」 の二文字に 書いた人の息遣いまで聞こえそうな筆の勢いを感じた

エネルギッシュで 荒々しく見えるが 計算されつくしたようなバランスを

保っている

吸い込まれるように 微動だにせず見ていたらしい

人が近づく気配さえ気がつかなかったのだから



「素晴らしい字でしょう ここの先生がお書きになったんですよ」


「えっ? あぁ そうだね ここの家の人? これをどうぞ」



渡したチラシを受け取ったが その子はここは自分の家ではない 

書道を習っている先生の家だと教えてくれた

自分も習っているが とても良い先生で どうですか 習ってみませんかと 

私に習い事を勧めてきた



「私も花房先生の字を見て こんな字を書いてみたいと思ったんです 

良かったら見学していきませんか?」 

 

そのときすでに 花房先生の字に惚れ込んでいた私は 彼女に言われるまま

家に入り 先生にお会いした

話を聞き 先生の書を見せていただき もうこれは習うしかない 

習うんだと強く決め そのまま入門した


それから時間を作っては先生の家へと通った

店の昼の営業は妻に任せ 午後からの二時間を書の練習にあてた

先生の家では彼女も一緒だった

名前を知ったのはほどなく 長谷川 藍 と綺麗な字が隣りに座る彼女の手で

書かれていく

当時高校生だった藍ちゃんとは 彼女が大学に入るまで同じ時間帯の

稽古だった


彼女と歳は離れていたが 同じ頃に入門した者同士 同期生の感覚があった

小・中学と書道の経験があった私は 彼女よりかなり早く上へ進んだ

昇段するたびに 

「牧村さん すごいわ また上がったんですね おめでとうございます」 

こういってお祝いの言葉をくれた

彼女にとって私の存在は 一緒に習う仲間の域をでないのだろうが 

私にとっては仲間であり 応援してくれる人であり 良き理解者だった

藍ちゃんに励まされると 次も頑張ろうとエネルギーが込み上げ 

特別競書会などにも積極的に出品した




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