瑛先生とわたし
夕方近く、生徒さんたちがやってきた。
火曜日は初心者のクラスで、6人の生徒さんがいる。
お習字をはじめたばかりの女の人が二人と、おじさんが一人。
市民センター副所長さんの深澤さんも、1月から火曜日のクラスに参加して
いる。
それから、赤ちゃんと一緒の花井蒼さん。
女の人たちは、瑛先生が書いたお正月の字を見て 「習いたい」 とやって
きた。
主婦ですって言ってたけど、お習字より先生とのお話が楽しいみたい。
おじさんは無言で書いて、先生に見てもらったら帰って行くから、ほとんど声
を聞いたことがないわね。
蒼さんもおじさんと同じ、黙って熱心に書いて、先生に見てもらって……
ときどき主婦の人が話しかけるけど、あんまりおしゃべりしない人。
蒼さんがお稽古の間、透くんは家政婦の林さんが見ている。
赤ちゃん、懐かしいわねって言いながら、楽しそうに赤ちゃんの相手をして
るの。
お稽古の合間に瑛先生も透くんを覗きにきて、抱っこしたり、ときにはオムツ
もかえちゃう。
先生が赤ちゃんを抱っこしてるの、なんかいいな。
すごく似合ってる。
でも、龍之介さんは全然ダメ。
抱っこが下手だから、透くんがすぐに泣いちゃうの。
龍之介さんも火曜日の生徒さんの一人で、最近はじめたばかり。
でも、急にお習字を始めるなんて、どうしたのかな?
「ありがとうございました。お世話になりました」
「いいえ、透ちゃん、おりこうさんでしたよ。
いま寝たのよ。もう少しこのままにしてあげたらどうかしら」
「でも……あの、やっぱり連れて帰ります」
「あっ、俺、送ります」
蒼さんと林さんのやり取りを聞いていた龍之介さんが、急にこんなことを言い
出して、いいですと断る蒼さんを強引に車に乗せて行っちゃった。
「あらら……龍之介さん、かなり強引でしたね」
「ははっ、あいつも必死なんでしょう」
「花井さんと龍之介さんですか……お似合いですけど……」
そういうと、林さんはちょっと困った顔をした。
「彼女がシングルマザーだから気になりますか」
「えぇ、まぁ……」
「僕はいいと思いますよ」
「でも」
「はい?」
「あの……蒼さん、瑛先生のことがお好きなんじゃないかしら」
えっ……と二つの声がして、林さんが驚いた。
もう一人の声は誰?
チリンと音をさせて振り向くと、瑛先生のうしろに、すごくびっくりした顔を
した深澤瑠璃さんがいたの。
「すみません。 私……失礼します」
「瑠璃さん、待って」
瑛先生があわてて深澤さんを追いかけていった。
だって、深澤さん、お道具を忘れて行っちゃったんだもの。
龍之介さんは蒼さんが好きなの?
でも、蒼さんは先生が好きで、深澤さんも先生が好きで、
瑛先生は誰が好き?
わぁ……なんだか大変なことになりそう。