瑛先生とわたし
3 深澤瑠璃の憂鬱
「マーヤちゃん、こちらにいらっしゃい。向こうで待ってましょうね」
”あっ、深澤さんがきたのね。あーぁ、先生とお別れね”
わたしは、寂しそうに首の鈴をチリンと鳴らした。
市民センターの深澤さんは猫アレルギーなの。
だから、わたしはそばにいけなくて、深澤さんが来る日は林さんのそばで過
ごす。
『マーヤちゃん、ごめんなさいね』 って謝ってくれるから、深澤さんはいい
人だと思うけど、いい人ねって顔はできないわ。
深澤さんが花房のオウチに来る日は、わたし、不機嫌になっちゃう。
だって、あの人、すごく綺麗で美人で、スタイルが良くて、お仕事ができて頭
も良さそうで、瑛先生を見つめる目が真剣で、恋してますって顔だから。
瑛先生は深澤さんを 「瑠璃さん」 って名前で呼ぶけど、わたしはあの人
を 「瑠璃さん」 なんて呼びたくない。
わたしだって瑛先生が大好き。
だから、深澤さんはわたしのライバルよ。
絶対負けないんだから。
「瑠璃さん」 と呼ばれて、ドキドキしながら 「はい」 と返事をした
のに、瑛先生の口から出た言葉は私を憂鬱にさせた。
「今月も進級しましたよ。来月から中級クラスに進みませんか。
基本もしっかりしてきたから、瑠璃さんならもっと上達するでしょう」
「中級ですか……」
近くに座っている花井さんから 「深澤さん、また進級したんですね。
おめでとうございます」 と声を掛けられたけれど、私の気持ちは急降下。
先生から褒めてもらったのは嬉しいけれど、花井さんの言葉は素直に受け取れ
ない。
それに、いまはここを離れたくない。
中級クラスは他の先生が講師だから、瑛先生に会えなくなる。
もうすぐお別れなのに、それはイヤ……
花井さんが初級クラスに入ってきたのは昨年の終わりだった。
書道の資格をとるために通っていると聞いた。
資格を持ってるとなにかと有利よ、頑張ってね……なんて、ちょっとだけ先輩
風を吹かせて花井さんに声をかけたのに、 彼女が書いた字を見て衝撃を受
けた。
初級、中級なんてレベルじゃない。
瑛先生がお留守のとき時々教えてくださる牧村さんも
「花井さんの筆は素直でいいね。楽しみだな」 なんて手放しで褒めていた。
牧村さんはバーのマスターで、瑛先生のおじいさまの古いお弟子さん。
お仕事をしながら書を続けてこられた方だから、花井さんを応援する気持ちが
強いのだと、私に話してくれた。
そんなに素晴らしい人が、どうして初級クラスなの? と疑問だったけれど、
家庭の事情でこの時間帯にしか来られないそうだ。
だから、書の腕前は上級クラスなのに、初心者に混じって先生の指導を受けて
いる。
習う花井さんも熱心で、瑛先生も熱のこもった指導をしている。
彼女の手に、先生が手を添えて筆を走らせて
「ここはこう力を入れて書いて……」 なんて、
先生の顔も花井さんの頬につくほど近くて、それは羨ましいより妬ましい。
見ないようにしても視界に入ってきて、二人の姿を見ると切なくなるわ。