瑛先生とわたし
私と同じように、切ないため息を吐く人がもうひとりいる。
先生のお友達の長谷川龍之介さん。
龍之介さんは、明らかに花井さんを意識しているから、先生と花井さんが親し
くしていると、苦しそうな顔をして二人を見ているわね。
私は龍之介さんのように、気持ちをストレートに出すのは苦手。
心の奥を気づかれないように、そっと先生を想っているだけだった。
それなのに、先日、林さんの言葉に取り乱してしまった。
『蒼さん、瑛先生のことがお好きなんじゃないかしら』
もしかして……と思っていたけれど、やっぱりそうなのね。
花井さん、先生の言葉に真剣にうなずいて、じっと顔を見て、それは恋してる
女の子の目。
私より10歳も若い花井さんは、何かもが初々しくて魅力的。
そんな人が目の前にいたら、瑛先生は私なんて目に入らないはず。
それでも、少しでも先生の近くにいたいと思うもの。
花井さんも自己の理由で稽古の日を変えているのだから、それなら、
私だって……
「すみません。他の日は仕事の都合で来られないので、
このまま火曜日にお稽古したいのですが」
「そうなの? 中級は土曜の夕方だけど仕事?
あっ、そうか、市民センターは土曜日も開館してるね」
「はっ、はい……」
本当は、土曜日の夕方には仕事は終わってる。
だけど、そんなことは言わない。
4月には異動で本庁に戻ることになっている。
転勤まであと三ヶ月足らず。
転勤したらお稽古に通うのは無理だから、そのまえに、私の気持ちを先生に伝
えたい。
瑛先生は、書道を通じて私に自信を持たせてくれた。
先生の言葉一つ一つが、私には大事なものになった。
言葉だけでなく、先生の声もお顔も仕草も、なにもかもが 私には眩しくて、
心がときめくの。
瑛先生、あなたを好きでいてもいいですか……
「マーヤ、こっちにおいで」
”わぁ、待ってたのよ。遊んで、遊んで”
「瑠璃さんが来る日は一緒にいられなくてごめん」
”うぅん、いいの。だって、あとでこうして抱っこしてもらえるもん”
「瑠璃さん、中級クラスに来られないそうだ。残念だよ」
”あら、蒼さんも上手なのに初心者クラスにいるわよ”
「瑠璃さん、すごく上達してるんだよ。
中級クラスは人数も少ないから、じっくり指導できるんだ。
彼女のために、もっと時間をかけてあげようと思ったのに」
先生のお顔、本当に残念そう。
どのお弟子さんも大事なのね。
先生のそんなところも好き。
「瑠璃さん、どうして……」
”瑠璃さん、瑠璃さんって、何度もあの人の名前を呼ばないで!”
「マーヤ、どうした? ご機嫌ナナメだね」
そうよ、わたしを抱っこしてるのに、どうして瑠璃さんのことばかり気にす
るの?
先生って女心がわからないのね。
わたしは、イヤイヤするように首を振って、チリンチリンと鈴を鳴らし続
けた。