瑛先生とわたし


藍ちゃんが大学を卒業したら結婚したいと言われたときも、「いいわよ」 と

何の心配もなく賛成したわね。

それなのに、長谷川のお父さんの反対にあって瑛も苦い思いをしたものよ。

お父さんに反発して家出をした藍ちゃんを、ウチにつれてきたときは驚いたけ

れど、隠れずに親の目の届くところにいてくれたのは、瑛が冷静な判断をした

からだと今でも思っている。

「数日したら、藍の家に送っていくから」 という瑛の言葉を聞いて、わが

息子ながらなんてできた子かしらと思ったもの。

親の前でも手をつないで散歩したり、本当に微笑ましい若い二人だったわね。

その後、瑛が頑張って賞をとって実績を作ったのは、藍ちゃんのためでもある

けれど、長谷川のお父さんを安心させるためでもあったはず。


だからこそ、今度の再婚話は、納得できないと言うか、何かが欠けていると感

じるわね。

まったく瑛の気持ちが見えてこないなんてこと、これまでになかったことです

もの。

そそっかしくて、娘からいつも 「もっと落ち着いて 周りを見て」 と言わ

れる私だけど、こういう勘は外れたことがないんだから。

瑛の気持ちを聞いておかなくてはいけないわね。



林さんが淹れて下さったお茶を二杯お代わりしたところで、瑛が仕事部屋から

出てきた。



「行こうか」


「仕事の邪魔をしちゃったわね」


「いや、ちょうどきりがいいところだったから」


「そう? ありがとう。じゃぁお願いね」



たくさんの荷物と私を乗せて、瑛の車は走り出した。

この車は10年以上乗っていて、走行距離もかなりのものだと華音から聞いて

いた。

それでも替えないのは、藍ちゃんの思い出が詰まっているから。

やっぱり再婚なんて考えるはずがないわ。

そう思ったから、家への道を走りながら、何気なくといった感じで聞いて

みた。



「ねぇ、瑛」


「うん?」


「あなた、再婚は考えないの?」


「母さんがそんなこと聞くなんて、珍しいね」


「そうかしら」


「そうだよ」



ほら、たいした反応はないわ。

やはり長谷川のお父さんの一人合点だったのね。

と思いながらも、少し踏み込んで聞いてみた。



「たとえばね」


「うん」


「たとえば……こんな名前を持った人がいたら、

あなたも気になるんじゃないかと思ったの」


「どんな名前?」


「えっと、シロさんとか、クロさんとか」


「えぇっ、それって犬の名前? それとも猫? 

ウチにはマーヤがいるからいいよ」



あっ、質問を失敗したわ。

もう一度……



「ベニさんとか、モモさんとか。そうね、ほかには、アオさんとか、 

ルリさんなんてお名前も可愛らしいじゃない」


「蒼さんという生徒さんがウチにきてるよ。でも、そんなこと思わないな

瑠璃さんも生徒さんにいるよ。そうだね、可愛い人だよ」



瑛の返事を聞いて 「えっ」 と声を出しそうになったけれど、口を結んで

ぐっとこらえた私を誰か褒めてちょうだい。

息を整えて、静かにこう続けたの。



「あら、そうなの? 可愛いルリさんに私も会ってみたいわ。

今度ウチに連れていらっしゃいよ」


「そうだね」



私の頭の中が、ピピッと反応した。

ふふっ……もしかしたら、春がくるかもしれないわね。



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