瑛先生とわたし


迎えに来てくれる男性がいない私は、夜道を独りで歩いて帰ることにした。

タクシーに乗るほどの距離ではない、酔い覚ましに歩いてちょうどよい。


20年ほど前、失恋で荒れた私の心を癒してくれたのは瑛君だった。

酔った私を抱え、この道を歩いたはず。

私は彼の腕の中で多くの愚痴と涙を流し、気持ちを立て直した。

それから10年後、もう一度彼に助けられた。

飲んで飲んで、また涙を流して、私は再生した。

そのときは、晴れやかな気分でこの道を瑛君と歩いて帰った。


親友の弟へ、いまだ思慕の情があるのだと今夜気がついた。

結婚したいとかパートナーになってほしいとか、そういうのではない。

四六時中そばにいて愛を交わしたいとも思わない。

ときに言葉をかけて、気にしてもらって、慰めあって、そんな関係でいたいと

思う。

いま私と瑛君は、ちょうどよい距離にいる。

このまま年を重ねて、いつまでも彼と良い関係でいられると思っていた

のに……

瑛君を慕う女性の出現は、少なからず私の心をかき乱した。

一途に瑛君を想う瑠璃ちゃんの気持ちを何とかしてあげたいと言いながら、

私の心の片隅にはそうしたくないとの思いもある。

この気持ちは、華音に気づかれたくない。

瑛君は、もしかしたら感じてくれているかもしれないけれど。


ふいに目の前に瑛君が現れるような気がした。

「菜々子さん、飲みすぎだよ」 と言いながら、私を迎えに来てくれるのでは

ないかと、そう思ったが、家にたどり着くまで彼があらわれることはな

かった。

三度目はないのだと、思い知らされた夜だった。







「マーヤ、一樹に兄弟が生まれるんだよ」


”華音さんに赤ちゃんが生まれるのね。男の子? 女の子?”


「一樹も長く一人っ子だったからな。

まさかあの歳で、赤ちゃんがえりなんてことはないだろうが、

複雑な思いもあるだろう。けど、羨ましいよ」


”どうして?”


「渉が透くんを可愛がってる様子を見ると、渉にも兄弟がいたらと思うよ」 


”そうなんだ……”


「蒼さん、透くんの世話で縛られるのは良くないと思う。

僕が面倒を見てもいいなんて、そんなことを思うこともあるが、

そういうわけには」



ドアの外で大きな音がした。

あれ? まえにも同じことがあったわ。

また深澤さんなの?

瑛先生がお部屋のドアを開けると、そこにいたのは龍之介さんだった。



「瑛、本気なのか!」



あーびっくりした。

いきなり龍之介さんが、瑛先生に向かって叫んだの。



「透くんを引き取ろうなんて、考えてるんじゃないだろうな」


「龍之介、どうしたんだよ」


「透くんは俺が面倒を見る。蒼ちゃんと透くんは俺が守る」



仁王立ちで宣言する龍之介さんを、瑛先生は目をぱちくりさせて見ていた。

わたしにも、何がなんだかわからない。

先生の足元でうろうろしていたら、龍之介さんの後ろに人が見えた。

先生も気がついたのね 「花井さん!」 と呼んだ声に、龍之介さんが振り

返った。



「龍之介さん……わたし わたし……」



震える声で立ち尽くす蒼さんを、龍之介さんが抱きしめた。

キャー! 見ちゃった!

ドキドキが止まらない……





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