泡沫(うたかた)の落日
第一章 天使の正体
第1話 消えた記憶と見知らぬ私
深い深い海の底の珊瑚岩に根づく海藻の様に、私は生暖かい海流の揺れの心地良さに身を任せ、ゆらりゆらりしながら目をそっと閉じて微睡んでいた。
やがてゆっくりと目を開けてみたら、上から幾つもの光の筋が柔らかにそそぎ込み、それは真っ白な海底砂に幻想的な美しい光の波形を描き、波の揺れによってその波形は、舞を舞うように動いていて、この世の物とは思えないぐらいとても綺麗で、うっとりと見惚れていた。
『ああ……。なんて綺麗で美しいのだろう……』いつまでもいつまでも、この場所でこうしていたい。
――夜がやって来たのだろうか?
しばらくしたら、辺りが段々と暗くなってきて、それと共に海水の温度がどんどん低下し、体はあっという間に冷え、寒くて寒くて体がだんだん痺れてきて手足の感覚も無くなり、とても恐ろしくなってきた。深い深い闇はあっという間に私を飲み込んでしまい、全く何も見えなくなってしまった。
感じ取れるのは、静寂と闇と体に刺さるような痛い程の冷たさだけで、痺れた体はとうとう動かす事も出来なくなり、恐ろしくて恐ろしくて、助けを呼ぼうと一生懸命声を出そうと頑張っているのに、全く声が出せなかった。
深い深い闇は、ズルズルと冥府の世界へ誘おうと纏わりついて襲いかかって来るようで、あまりの恐ろしさに耐えられなくなり、もう駄目だと思ったその時、何処からともなく私を呼ぶ声が聞えて来た。
温かく優しい、何故かとても懐かしいようなおじいさんの声。
『……ナ、……ナ、そっちへ行っては駄目だよ』
『真っ暗で何も見えないわ。どうしたらいいのか分からないし、とても怖いの』
『怖がらずに……。目を閉じて心で感じてごらん。ほら、光を感じないかい?』
目を閉じると、ぼんやりと柔らかな光を感じる事が出来た。ほんわりと温かさも感じる事が出来た。その方向に手を伸ばしてみたら、スーッと引っ張られる感じがした。
* * * * *
『……さん、……さん、藤城(ふじしろ)さん。藤城聖愛(ふじしろ せな)さん、分かりますか?』
声に誘われるように目を開けたら、ぼんやりと白い服を着た女性らしき人が私の方を覗き込んでる姿が見えた。
”フジシロ セナ”さんって誰だろう? 私の事なの?
暫く朦朧とした状態が続いていたが、段々意識も定まってきて、それと同時にぼんやりとしたシルエットも徐々にはっきりして来て、その女性は、白いワンピのナースウェアを着た看護士さんだと言う事が分かった。
『!!』
意識がはっきり定まったその瞬間、冷や水を浴びせられたような衝撃が走った。私って誰だっけ?
まるで頭の中を消しゴムで消されてしまったように、なにも思い出せない事に気が付いた。まるで、リセットボタンを押されて、自分の事に関するデーターを全て消去されてしまったように……。
何となく私は”フジシロ セナ”では無いような気がした。別人のような、その名前に違和感を感じた。はっきり思い出せないけれど、あの夢の中でおじいさんの呼んでいた名前とちょっと違うような気がした。その名前が何だったのか? どうしても思い出せないのだけれど、絶対に”セナ”では無かったような……。
「藤城聖愛さん、ご気分はいかがですか? 苦しい所はありませんか?」
「私……。私……」
何をどう話していいのか、言葉が見付からない。
何故ここにいるのか? 私に一体何があったのか? 自分の事もまるで分らない。
「混乱されてるのですね? ここは相模之原(さがみのはら)中央病院の入院病棟ですよ。すぐ近くの湖で事故に遭ったのは覚えてますか?」
「え?」
「乗っていたボートが転覆して、溺れそうになった所を、近くでボート釣りをしていた人に助けられて、病院に運ばれたのですよ。睡眠薬も大量に飲んでいたので、それから3日間眠り続けて……」
「ええっ?」
睡眠薬を大量に飲んだと言う事は、もしかして自殺しようとしたって事?『うそ!!』私が自殺しようと思うなんて!! 考えられない!! 睡眠薬なんて知らない!!
それから記憶が無いと言う事で、脳波やら頭のCTやら、色々と検査を受けさせられたり、自殺未遂らしいと精神科にかかったり、散々な日々を送り……。私には別れた夫(結婚していたらしい……)以外に身寄りがいないらしく、退院の日に元夫の秘書だと言う人が迎えにやって来た。
”渡部”と言う元夫の秘書は、年齢は30代前半ぐらい、いかにも仕事の出来そうなビジネスマンという雰囲気。顔立ちは整っていて女性に好かれそうな容姿。物腰は穏やかで丁寧だけど、隙が無くてちょっと冷たそうな恐そうな感じがする。どちらかと言えば、私の苦手なタイプだ。
エントランス前の車寄せに待たせてあった、運転手付の高級外車に乗せられる。黒のボディーは鏡のようにピカピカに磨きあげられて、中は総革張りでとても広い。後部座席中央シートからアームレストが出されていたが、その大きな事。腕を乗せても落ち着かなくて、私はまるで叱られた幼い子供のように、後部左側の席に小さくなって座っていた。
車は病院を出ると、少しの間国道を走った後、高速へと入って行った。『東京方面』という文字が見えた。
何故だろう……。車窓から見える景色が、こんもりとした緑の山々から、段々とビルや家々の建ち並ぶ様に変化していくにつれ、何故か見知らぬ場所に連れて行かれるような、落ち着かないような、少し心細いような気持ちになってきた。
元夫はどんな人なのだろう? 裕福そうだが、何か手広く事業をしている人なのか? 危ない系の人なのか? 一体何をやっている人なのだろう? とても気になる。
入院中一度も面会に来る事も無かったし、何の連絡も無かったし、離婚したぐらいなのだから、本当は顔を見るのも嫌なのかもしれないし、身寄りがないと言う私の事を放置も出来ずに仕方なしに手助けしてくれる事にしたのかもしれない。もしかしたら、犬猿の仲だったとか、嫌われてたり憎まれてるとか、他に女性がいるとか……。招かれざる客という雰囲気で、厄介者なのかもしれない。
私も、そんな人に頼るのもどうかなとも思うけれど、自分が何者なのかも分からない、どんな特技があるのかも知らないし、自分に何が出来るのかも分からない。
とりあえず、唯一私の事を知っている人だから……。その人から以前の私についての話しを聞いて、自分の事を知り、この先どうやって何をして生きていけばいいのか? その答えを見付けなくては……。その間だけ、元夫であるその人の御好意に甘えさせて貰おう。
縁も切れてしまって、本当なら面倒を見る必要もないはずなのに、離婚した元妻の面倒を見てくれる人なのだから、きっと良い人なのだろう……。いつか何かの形で感謝の気持ちをお返ししなければ……。
車は首都高『目黒』ランプから一般道に降りて、広い幹線道路から横道に逸れ、少し入って行くと、高層ビルの立ち並ぶ近代的で華やかな景観から一転して、緑鮮やかな街路樹が立ち並ぶ閑静な高級住宅地へと変化して行き、やがて、明るい鮮やかな淡いレッドのブリックタイル張りの洋館が現れた。
優美なデコレーションのロートアイアンの大きな観音開きの自動開閉の門扉がオープンして、車は中に入って行った。
洋館に隣接して、何台もの車が収まりそうな大きなガレージがあり、上部にお洒落な小窓の付いたアイボリーのガレージシャッターが付いている。
綺麗に管理された西洋風の庭には、アイアンの薔薇のアーチや大理石の噴水や、アールヌーボ調のレリーフやオーナメントにテラコッタの鉢……。きっと私はこう言う物が好きなのかもしれない、見ていると胸がワクワクして来た。
でも、私は本当にここに住んでいた事があるのだろうか? 記憶を無くしてしまったにしても、初めて来た場所のような気持ちになる。何か落ち着かない気持ちで、私の居た世界と違う場所にやって来た気がしてならなかった。
元夫だったという人に会えば、何か思い出す事ができるだろうか? 失ってしまった私を取り戻す事が出来るであろうか?
私は屋敷に入ると渡部さんの案内で、元夫が待つ居間へと向った。
(第2話に続く)
やがてゆっくりと目を開けてみたら、上から幾つもの光の筋が柔らかにそそぎ込み、それは真っ白な海底砂に幻想的な美しい光の波形を描き、波の揺れによってその波形は、舞を舞うように動いていて、この世の物とは思えないぐらいとても綺麗で、うっとりと見惚れていた。
『ああ……。なんて綺麗で美しいのだろう……』いつまでもいつまでも、この場所でこうしていたい。
――夜がやって来たのだろうか?
しばらくしたら、辺りが段々と暗くなってきて、それと共に海水の温度がどんどん低下し、体はあっという間に冷え、寒くて寒くて体がだんだん痺れてきて手足の感覚も無くなり、とても恐ろしくなってきた。深い深い闇はあっという間に私を飲み込んでしまい、全く何も見えなくなってしまった。
感じ取れるのは、静寂と闇と体に刺さるような痛い程の冷たさだけで、痺れた体はとうとう動かす事も出来なくなり、恐ろしくて恐ろしくて、助けを呼ぼうと一生懸命声を出そうと頑張っているのに、全く声が出せなかった。
深い深い闇は、ズルズルと冥府の世界へ誘おうと纏わりついて襲いかかって来るようで、あまりの恐ろしさに耐えられなくなり、もう駄目だと思ったその時、何処からともなく私を呼ぶ声が聞えて来た。
温かく優しい、何故かとても懐かしいようなおじいさんの声。
『……ナ、……ナ、そっちへ行っては駄目だよ』
『真っ暗で何も見えないわ。どうしたらいいのか分からないし、とても怖いの』
『怖がらずに……。目を閉じて心で感じてごらん。ほら、光を感じないかい?』
目を閉じると、ぼんやりと柔らかな光を感じる事が出来た。ほんわりと温かさも感じる事が出来た。その方向に手を伸ばしてみたら、スーッと引っ張られる感じがした。
* * * * *
『……さん、……さん、藤城(ふじしろ)さん。藤城聖愛(ふじしろ せな)さん、分かりますか?』
声に誘われるように目を開けたら、ぼんやりと白い服を着た女性らしき人が私の方を覗き込んでる姿が見えた。
”フジシロ セナ”さんって誰だろう? 私の事なの?
暫く朦朧とした状態が続いていたが、段々意識も定まってきて、それと同時にぼんやりとしたシルエットも徐々にはっきりして来て、その女性は、白いワンピのナースウェアを着た看護士さんだと言う事が分かった。
『!!』
意識がはっきり定まったその瞬間、冷や水を浴びせられたような衝撃が走った。私って誰だっけ?
まるで頭の中を消しゴムで消されてしまったように、なにも思い出せない事に気が付いた。まるで、リセットボタンを押されて、自分の事に関するデーターを全て消去されてしまったように……。
何となく私は”フジシロ セナ”では無いような気がした。別人のような、その名前に違和感を感じた。はっきり思い出せないけれど、あの夢の中でおじいさんの呼んでいた名前とちょっと違うような気がした。その名前が何だったのか? どうしても思い出せないのだけれど、絶対に”セナ”では無かったような……。
「藤城聖愛さん、ご気分はいかがですか? 苦しい所はありませんか?」
「私……。私……」
何をどう話していいのか、言葉が見付からない。
何故ここにいるのか? 私に一体何があったのか? 自分の事もまるで分らない。
「混乱されてるのですね? ここは相模之原(さがみのはら)中央病院の入院病棟ですよ。すぐ近くの湖で事故に遭ったのは覚えてますか?」
「え?」
「乗っていたボートが転覆して、溺れそうになった所を、近くでボート釣りをしていた人に助けられて、病院に運ばれたのですよ。睡眠薬も大量に飲んでいたので、それから3日間眠り続けて……」
「ええっ?」
睡眠薬を大量に飲んだと言う事は、もしかして自殺しようとしたって事?『うそ!!』私が自殺しようと思うなんて!! 考えられない!! 睡眠薬なんて知らない!!
それから記憶が無いと言う事で、脳波やら頭のCTやら、色々と検査を受けさせられたり、自殺未遂らしいと精神科にかかったり、散々な日々を送り……。私には別れた夫(結婚していたらしい……)以外に身寄りがいないらしく、退院の日に元夫の秘書だと言う人が迎えにやって来た。
”渡部”と言う元夫の秘書は、年齢は30代前半ぐらい、いかにも仕事の出来そうなビジネスマンという雰囲気。顔立ちは整っていて女性に好かれそうな容姿。物腰は穏やかで丁寧だけど、隙が無くてちょっと冷たそうな恐そうな感じがする。どちらかと言えば、私の苦手なタイプだ。
エントランス前の車寄せに待たせてあった、運転手付の高級外車に乗せられる。黒のボディーは鏡のようにピカピカに磨きあげられて、中は総革張りでとても広い。後部座席中央シートからアームレストが出されていたが、その大きな事。腕を乗せても落ち着かなくて、私はまるで叱られた幼い子供のように、後部左側の席に小さくなって座っていた。
車は病院を出ると、少しの間国道を走った後、高速へと入って行った。『東京方面』という文字が見えた。
何故だろう……。車窓から見える景色が、こんもりとした緑の山々から、段々とビルや家々の建ち並ぶ様に変化していくにつれ、何故か見知らぬ場所に連れて行かれるような、落ち着かないような、少し心細いような気持ちになってきた。
元夫はどんな人なのだろう? 裕福そうだが、何か手広く事業をしている人なのか? 危ない系の人なのか? 一体何をやっている人なのだろう? とても気になる。
入院中一度も面会に来る事も無かったし、何の連絡も無かったし、離婚したぐらいなのだから、本当は顔を見るのも嫌なのかもしれないし、身寄りがないと言う私の事を放置も出来ずに仕方なしに手助けしてくれる事にしたのかもしれない。もしかしたら、犬猿の仲だったとか、嫌われてたり憎まれてるとか、他に女性がいるとか……。招かれざる客という雰囲気で、厄介者なのかもしれない。
私も、そんな人に頼るのもどうかなとも思うけれど、自分が何者なのかも分からない、どんな特技があるのかも知らないし、自分に何が出来るのかも分からない。
とりあえず、唯一私の事を知っている人だから……。その人から以前の私についての話しを聞いて、自分の事を知り、この先どうやって何をして生きていけばいいのか? その答えを見付けなくては……。その間だけ、元夫であるその人の御好意に甘えさせて貰おう。
縁も切れてしまって、本当なら面倒を見る必要もないはずなのに、離婚した元妻の面倒を見てくれる人なのだから、きっと良い人なのだろう……。いつか何かの形で感謝の気持ちをお返ししなければ……。
車は首都高『目黒』ランプから一般道に降りて、広い幹線道路から横道に逸れ、少し入って行くと、高層ビルの立ち並ぶ近代的で華やかな景観から一転して、緑鮮やかな街路樹が立ち並ぶ閑静な高級住宅地へと変化して行き、やがて、明るい鮮やかな淡いレッドのブリックタイル張りの洋館が現れた。
優美なデコレーションのロートアイアンの大きな観音開きの自動開閉の門扉がオープンして、車は中に入って行った。
洋館に隣接して、何台もの車が収まりそうな大きなガレージがあり、上部にお洒落な小窓の付いたアイボリーのガレージシャッターが付いている。
綺麗に管理された西洋風の庭には、アイアンの薔薇のアーチや大理石の噴水や、アールヌーボ調のレリーフやオーナメントにテラコッタの鉢……。きっと私はこう言う物が好きなのかもしれない、見ていると胸がワクワクして来た。
でも、私は本当にここに住んでいた事があるのだろうか? 記憶を無くしてしまったにしても、初めて来た場所のような気持ちになる。何か落ち着かない気持ちで、私の居た世界と違う場所にやって来た気がしてならなかった。
元夫だったという人に会えば、何か思い出す事ができるだろうか? 失ってしまった私を取り戻す事が出来るであろうか?
私は屋敷に入ると渡部さんの案内で、元夫が待つ居間へと向った。
(第2話に続く)