泡沫(うたかた)の落日
第10話 心の内
怖い顔をして嶺司から突然に腕をつかまれたので、聖愛は恐くなって身を固くした。
こんな時間、こんな場所で、誰もいない状況で……。何されるんだろう……。恐い。危険な目にあったら蹴飛ばす? 思いっきり拳固でパンチする? いいえ……。ここに置いてもらっている居候の身、そんな事をしたら追い出されちゃう。次に起こす行動は一体どうすれば……。オロオロしてパニックに陥りそうな直後だった。
「血が出てる……」
嶺司の想定外の言葉に一気に緊張状態が緩んだ。
「えっ……」
見れば朝切った右手の指の傷から出血してる。さっき自転車で急ブレーキをかけた時に、ハンドルと擦れて一度塞がった傷口が開いてしまったようだ。朝、渡部さんが手当てしてくれた傷絆創膏から沸き上るように血がにじみ出し、手を赤く染めていた。
「ウワっ……」
今度は自分の手を見て驚いて、聖愛は犬が吠えるような可笑しな声を出してしまった。
「見せてごらん」
嶺司はキーフックボードの下に置かれている、サイドボードの引き出しから救急箱を取り出し、指に巻かれている絆創膏をはがして傷の具合を見た。薬指と中指の内側を斜め横断するように深く切れた傷口がパックリ開いて、滴る様に血が溢れて来る。
絆創膏を剥がされた時にビリッと痛みが走って「い……っ」と言ってビクリと飛び上がったら、「ごめん。痛かった?」と嶺司に聞かれて、聖愛は慌てて「あ……。大丈夫です」と答えた。(恐そうに見えたけれど、本当は優しい人みたいと聖愛は思った)
「渡部から、朝、陶器の破片で指を切ったと聞いていたが……。結構深く切ってしまったようだね。病院に行こう」
その傷口に滅菌ガーゼを当てて、強く圧迫して止血しながら嶺司が言った。滴り落ちた血は、嶺司の高そうな服に落ち染み込んで汚して行く。
「えっ……。だ……大丈夫です。こんなの絆創膏で止めておけば。それより、お洋服を汚してしまってすみません」
聖愛は申し訳なさそうにペコリと謝った。
「そんな事構わないよ。それより指先は血管が沢山通っているし、良く動かす部位だし縫った方が早く直ると思うし、化膿したら大変だから」
「ええっ。縫うって……。そんな……」
そんな大した事ないと思っていたのに……。聖愛は『縫う』と聞いて、恐くなった。
「知り合いに外科医がいるから、診療外だけれど、言えば見てくれると思うから。さあ、行くよ。ここ押さえてて」
「えっ。あの……」
「しっかり押さえないと、血が止まらないよ」
「あっ……。はい」
嶺司は聖愛のバッグと先程商店街で買ったお総菜の袋を持って、ガレージの方に歩きながら、携帯で知り合いの外科医に電話を入れていた。聖愛はガーゼで指を押さえながら後ろをひょこひょこ付いていった。また迷惑をかけてしまったと、ちょっと心苦しい気持ちになった。
ガレージの中には博物館かと思えるような高級そうな車がズラリと並んでいて、想像はしていたけれど実際に見ると、想像と現実では全く違う感じで、聖愛は圧倒されて口が塞がらないような気持ちになった。
「さっきトルクレンチって言う車の工具が見当たらなくて探し回っててね、まさかとは思いながら納屋に行ってみたんだ。結局見付からなかったけどね。さあ乗って。シートベルトは付けてあげるから、そのまま傷を押さえてて」
「あ……。すみません」
ウン千万ぐらいしそうな、上品な深みのあるブルーのボディーのスポーツカータイプの高級外車……。(すごいっ)と聖愛は心の中で呟いた。
嶺司がドアを開けてくれて、聖愛がレザーシートを汚さないように注意しながら右側助手席にそうっと座ると、シートベルトを付けてくれた。その時に、嶺司のサラリとした髪の毛が一瞬頬に触れ、ふわりと主張しすぎない上品なコロンの香りが鼻腔をくすぐった。その瞬間ドキリと心が跳ねた。
* * * * *
傷はとても丁寧に細かく縫ってくれて、指一本に4針ずつ……。計8針。
「はぁ……っ」
帰りの車の中、聖愛は溜息を付いた。病院で縫合は、緊張するし痛いし疲れる……。
「疲れた?」
「はい。ちょっと……。あ、色々ご面倒おかけしてすみませんでした」
聖愛が、嶺司の方を向いてペコリと頭を下げた。その途端に『ぐぅーっ』と聖愛のお腹が鳴って、聖愛は慌ててお腹を押さえた。嶺司がクスリと笑って、右手でハンドルを持ちながら、反対の手の甲で口元を押さえて懸命に笑いを堪えていた。
「この車、お総菜臭い……」
嶺司が笑いながら言った。後ろのシートには、聖愛の手提げバッグとあのお総菜屋のショッピングバッグが並んでいた。車に乗る時に嶺司が乗せておいてくれたようだ。
「重ね重ねすみません。ついつい沢山買いすぎてしまって……。臭いますよね?」
苦笑顔で聖愛がまた嶺司にペコリと頭を下げた。本革張りの数千万の高級車の中に充満するお総菜の匂いって……。凄いアンバランスで、申し訳無くて、豆粒ぐらいに小さくなりたい心境だった。
嶺司が堪え切れずに声を出して笑い始めた。聖愛が益々苦笑顔で真っ赤になる。
「食べ切れないのなら、家に帰ったらご馳走してよ!」
「あ……。はい。私も助かります」
お互いに顔を見合わせて笑った。
「さっきのコロッケの歌、上手かったよ!」
その途端火が出るように聖愛の顔は真っ赤になり俯いた。今度はゴマ粒になりたい気持ち……。
「やだっ。凄く恥ずかしいです……。あんな時間に誰もいないって油断し切っていたので、飛んでもない恥ずかしい姿を見られてしまいました」
「君が朗らかに歌を歌ってる姿を初めて見たし、自転車に乗れる事も知らなかったし、今の君は素直で純粋でユーモラスな人なんだなって感じたよ。それから今朝はごめん」
「えっ?!」
聖愛は顔を上げて、嶺司の横顔を見た。もう笑ってなくて、真面目な表情で話しを続けた。
「去年君と初めて会ったその瞬間に恋に落ちたと言うか、一目惚れだったんだと思う。今の君はその時の君のままなんだ。私の知っている嫌な女聖愛じゃなくて、初めて出会った時の印象のままの聖愛で、戸惑いと言うか、困惑と言うか、どっちの君が本当の君なのだろうという混乱する気持ちと、また演技して私を惑わそうとしているのかと疑い、もしそうだったらと思うと君を絶対に許せないと、嫌悪と憎悪の気持ちが増長して、気が付いたらカップをはたき落としていたんだ。本当に悪かったよ」
聖愛は、気にしないで下さいという気持ちを込めて、俯きながら首を横に振った。
「君は、何故か二度目に会った時から違う人みたいになってしまって……。少し違和感はあったのだけれど、その当時は仕事も多忙でなかなか会えず、ゆっくりデートを楽しむ時間も取れず、初めの印象だけで心を決めてしまって、そのまま結婚に突っ走ってしまったんだ。で、結婚してみて君に感じた違和感は、気のせいでは無かったと言う事がはっきり分かった。感情の起伏が激しくて、非常に刺々しくて、思いやりのかけらも無くて……。自分本位で……。それに一番許せなかったのは、男にだらしなくて、私が出張で家を空けた時に、家にまで男を連れ込んで……。運悪く早めに仕事が終わって予定を切り上げて帰宅したら、お前と浮気相手との決定的な現場で鉢合わせ状態で、その事が離婚の一番の原因。まあ、結婚した直後ぐらいに気持ちが噛み合わなくて破綻状況ではあったけれど……。あの悪魔のような嫌な聖愛と、今の君は全く別人のようだから、本当に戸惑ってる所なんだ」
嶺司の心の内を聞いて、聖愛も今の正直な気持ちを話そうと思った。
「実は私自身、今の自分と過去の私の姿とが、かけ離れすぎていて戸惑っているんです。時々、聖愛という人は本当に私なのか?と思えるぐらいに、他人のような気持ちがしてならないんです。私の回りの人達の反応から過去の私の姿が映し出されてこんな人物だったのかなと想像するのですが、とても酷い人間だった様で、その過去の自分と向き合う事も恐ろしくてたまりません」
「今の君は、本当に初めて会った時のようだね……。君に何があったのか? 何故こんなにも違うのか? それを突き詰めたいと思ってるんだが、それが良い結果を招くのか? 何か良く無い事を引き起こしてしまうのじゃないかと、心配な気持ちもあるんだが……」
ハンドルを握る嶺司の横顔は、とても遠い目をしている様な感じがした。
自分の過去にもし目を背けたい様な真実が潜んでいるのだとしたらと思うと、恐くてたまらないけれど、でも、やはり目を背けてはいけないんだと聖愛は思った。
「真実を知る事はとても恐いです。でも、やはり先に進む為に避けてはいけないのだと思いました。私、渡部さんに私の事を調べて貰ったのですが、その事が書かれたファイルを今晩見ようって思ってます。どんな事が書かれているのか、恐いのですが……。やっぱり向き合わなくては……」
聖愛は気の迷いを払拭し、心を固めた。
(第11話に続く)
こんな時間、こんな場所で、誰もいない状況で……。何されるんだろう……。恐い。危険な目にあったら蹴飛ばす? 思いっきり拳固でパンチする? いいえ……。ここに置いてもらっている居候の身、そんな事をしたら追い出されちゃう。次に起こす行動は一体どうすれば……。オロオロしてパニックに陥りそうな直後だった。
「血が出てる……」
嶺司の想定外の言葉に一気に緊張状態が緩んだ。
「えっ……」
見れば朝切った右手の指の傷から出血してる。さっき自転車で急ブレーキをかけた時に、ハンドルと擦れて一度塞がった傷口が開いてしまったようだ。朝、渡部さんが手当てしてくれた傷絆創膏から沸き上るように血がにじみ出し、手を赤く染めていた。
「ウワっ……」
今度は自分の手を見て驚いて、聖愛は犬が吠えるような可笑しな声を出してしまった。
「見せてごらん」
嶺司はキーフックボードの下に置かれている、サイドボードの引き出しから救急箱を取り出し、指に巻かれている絆創膏をはがして傷の具合を見た。薬指と中指の内側を斜め横断するように深く切れた傷口がパックリ開いて、滴る様に血が溢れて来る。
絆創膏を剥がされた時にビリッと痛みが走って「い……っ」と言ってビクリと飛び上がったら、「ごめん。痛かった?」と嶺司に聞かれて、聖愛は慌てて「あ……。大丈夫です」と答えた。(恐そうに見えたけれど、本当は優しい人みたいと聖愛は思った)
「渡部から、朝、陶器の破片で指を切ったと聞いていたが……。結構深く切ってしまったようだね。病院に行こう」
その傷口に滅菌ガーゼを当てて、強く圧迫して止血しながら嶺司が言った。滴り落ちた血は、嶺司の高そうな服に落ち染み込んで汚して行く。
「えっ……。だ……大丈夫です。こんなの絆創膏で止めておけば。それより、お洋服を汚してしまってすみません」
聖愛は申し訳なさそうにペコリと謝った。
「そんな事構わないよ。それより指先は血管が沢山通っているし、良く動かす部位だし縫った方が早く直ると思うし、化膿したら大変だから」
「ええっ。縫うって……。そんな……」
そんな大した事ないと思っていたのに……。聖愛は『縫う』と聞いて、恐くなった。
「知り合いに外科医がいるから、診療外だけれど、言えば見てくれると思うから。さあ、行くよ。ここ押さえてて」
「えっ。あの……」
「しっかり押さえないと、血が止まらないよ」
「あっ……。はい」
嶺司は聖愛のバッグと先程商店街で買ったお総菜の袋を持って、ガレージの方に歩きながら、携帯で知り合いの外科医に電話を入れていた。聖愛はガーゼで指を押さえながら後ろをひょこひょこ付いていった。また迷惑をかけてしまったと、ちょっと心苦しい気持ちになった。
ガレージの中には博物館かと思えるような高級そうな車がズラリと並んでいて、想像はしていたけれど実際に見ると、想像と現実では全く違う感じで、聖愛は圧倒されて口が塞がらないような気持ちになった。
「さっきトルクレンチって言う車の工具が見当たらなくて探し回っててね、まさかとは思いながら納屋に行ってみたんだ。結局見付からなかったけどね。さあ乗って。シートベルトは付けてあげるから、そのまま傷を押さえてて」
「あ……。すみません」
ウン千万ぐらいしそうな、上品な深みのあるブルーのボディーのスポーツカータイプの高級外車……。(すごいっ)と聖愛は心の中で呟いた。
嶺司がドアを開けてくれて、聖愛がレザーシートを汚さないように注意しながら右側助手席にそうっと座ると、シートベルトを付けてくれた。その時に、嶺司のサラリとした髪の毛が一瞬頬に触れ、ふわりと主張しすぎない上品なコロンの香りが鼻腔をくすぐった。その瞬間ドキリと心が跳ねた。
* * * * *
傷はとても丁寧に細かく縫ってくれて、指一本に4針ずつ……。計8針。
「はぁ……っ」
帰りの車の中、聖愛は溜息を付いた。病院で縫合は、緊張するし痛いし疲れる……。
「疲れた?」
「はい。ちょっと……。あ、色々ご面倒おかけしてすみませんでした」
聖愛が、嶺司の方を向いてペコリと頭を下げた。その途端に『ぐぅーっ』と聖愛のお腹が鳴って、聖愛は慌ててお腹を押さえた。嶺司がクスリと笑って、右手でハンドルを持ちながら、反対の手の甲で口元を押さえて懸命に笑いを堪えていた。
「この車、お総菜臭い……」
嶺司が笑いながら言った。後ろのシートには、聖愛の手提げバッグとあのお総菜屋のショッピングバッグが並んでいた。車に乗る時に嶺司が乗せておいてくれたようだ。
「重ね重ねすみません。ついつい沢山買いすぎてしまって……。臭いますよね?」
苦笑顔で聖愛がまた嶺司にペコリと頭を下げた。本革張りの数千万の高級車の中に充満するお総菜の匂いって……。凄いアンバランスで、申し訳無くて、豆粒ぐらいに小さくなりたい心境だった。
嶺司が堪え切れずに声を出して笑い始めた。聖愛が益々苦笑顔で真っ赤になる。
「食べ切れないのなら、家に帰ったらご馳走してよ!」
「あ……。はい。私も助かります」
お互いに顔を見合わせて笑った。
「さっきのコロッケの歌、上手かったよ!」
その途端火が出るように聖愛の顔は真っ赤になり俯いた。今度はゴマ粒になりたい気持ち……。
「やだっ。凄く恥ずかしいです……。あんな時間に誰もいないって油断し切っていたので、飛んでもない恥ずかしい姿を見られてしまいました」
「君が朗らかに歌を歌ってる姿を初めて見たし、自転車に乗れる事も知らなかったし、今の君は素直で純粋でユーモラスな人なんだなって感じたよ。それから今朝はごめん」
「えっ?!」
聖愛は顔を上げて、嶺司の横顔を見た。もう笑ってなくて、真面目な表情で話しを続けた。
「去年君と初めて会ったその瞬間に恋に落ちたと言うか、一目惚れだったんだと思う。今の君はその時の君のままなんだ。私の知っている嫌な女聖愛じゃなくて、初めて出会った時の印象のままの聖愛で、戸惑いと言うか、困惑と言うか、どっちの君が本当の君なのだろうという混乱する気持ちと、また演技して私を惑わそうとしているのかと疑い、もしそうだったらと思うと君を絶対に許せないと、嫌悪と憎悪の気持ちが増長して、気が付いたらカップをはたき落としていたんだ。本当に悪かったよ」
聖愛は、気にしないで下さいという気持ちを込めて、俯きながら首を横に振った。
「君は、何故か二度目に会った時から違う人みたいになってしまって……。少し違和感はあったのだけれど、その当時は仕事も多忙でなかなか会えず、ゆっくりデートを楽しむ時間も取れず、初めの印象だけで心を決めてしまって、そのまま結婚に突っ走ってしまったんだ。で、結婚してみて君に感じた違和感は、気のせいでは無かったと言う事がはっきり分かった。感情の起伏が激しくて、非常に刺々しくて、思いやりのかけらも無くて……。自分本位で……。それに一番許せなかったのは、男にだらしなくて、私が出張で家を空けた時に、家にまで男を連れ込んで……。運悪く早めに仕事が終わって予定を切り上げて帰宅したら、お前と浮気相手との決定的な現場で鉢合わせ状態で、その事が離婚の一番の原因。まあ、結婚した直後ぐらいに気持ちが噛み合わなくて破綻状況ではあったけれど……。あの悪魔のような嫌な聖愛と、今の君は全く別人のようだから、本当に戸惑ってる所なんだ」
嶺司の心の内を聞いて、聖愛も今の正直な気持ちを話そうと思った。
「実は私自身、今の自分と過去の私の姿とが、かけ離れすぎていて戸惑っているんです。時々、聖愛という人は本当に私なのか?と思えるぐらいに、他人のような気持ちがしてならないんです。私の回りの人達の反応から過去の私の姿が映し出されてこんな人物だったのかなと想像するのですが、とても酷い人間だった様で、その過去の自分と向き合う事も恐ろしくてたまりません」
「今の君は、本当に初めて会った時のようだね……。君に何があったのか? 何故こんなにも違うのか? それを突き詰めたいと思ってるんだが、それが良い結果を招くのか? 何か良く無い事を引き起こしてしまうのじゃないかと、心配な気持ちもあるんだが……」
ハンドルを握る嶺司の横顔は、とても遠い目をしている様な感じがした。
自分の過去にもし目を背けたい様な真実が潜んでいるのだとしたらと思うと、恐くてたまらないけれど、でも、やはり目を背けてはいけないんだと聖愛は思った。
「真実を知る事はとても恐いです。でも、やはり先に進む為に避けてはいけないのだと思いました。私、渡部さんに私の事を調べて貰ったのですが、その事が書かれたファイルを今晩見ようって思ってます。どんな事が書かれているのか、恐いのですが……。やっぱり向き合わなくては……」
聖愛は気の迷いを払拭し、心を固めた。
(第11話に続く)