泡沫(うたかた)の落日
第3話 元妻からハウスメイドへ
頭の中が白い紙のようにまっさらな状態だという事は、悪い事ばかりではない物だなと思った。自尊心もプライドも関係ない。自分自身に鎧を着せて、守ったり、実像よりも大きく見せて見栄を張る事も必要ない。自分の正体が分からない、とてつもない恐ろしさという物はあるけれど、何でもあれという感じで、妙な自尊心については傷付く恐れを感じる事がないのだ。だから元夫に跪いて頭を下げる事など何でもない。今は頼れる人はこの人だけなのだから……。
「……………………」
跪いて元夫にお願いしてから暫くの間、沈黙が続いた。
「おまえ……。本当に記憶喪失なのか?!」
顔を上げると、元夫は、先程の冷ややかな瞳とは一転して、狐につままれたような驚きの表情に変化していた。
嶺司は酷く困惑していた。この女がこんなに従順で、しおらしいはずがない。やはり記憶喪失というのは本当だったのか?姿形はあの女だが、まるで別人のようだ。別れる時に十分すぎるほど渡した金銭も底を尽き、寄生虫や蛭のように、私に接近し、隙あらば甘い汁をむさぼり食い、吸い取ろうと、何か企んでこんな騒ぎを起したのだとてっきり思っていた。
そんなこともあろうかと、別れる時には念には念を入れ、念書も書かせ、今後一切何の関わりもないと言う確約を取らせてはいるし、法律的には何らこの女の面倒を見る義務も謂れもないが……。それでも、企業のトップとなれば、世間の目から見れば公人に近い存在。とりあえず、この女の腹の内を探る為と、必要最低限の援助はしたと言う世間へのパフォーマンスも兼ねて、この女をここに呼び寄せた。
刺々しい険しさも消えて、まるで、純真無垢な感じにさえ見えるではないか。どうなってるんだ。あの女の本質は、今の姿と昔の姿と、どっちが本当なんだ!!
「私、何も分からないんです。自分の年も誕生日も知らないし、藤城聖愛だと言われても、本当に私の名前なのかと、信じられない様な気持ちなんです。あなたと私は結婚していたのですか?そして離婚したのですか?私はここに住んでいたのですか?自分が何者なのかも全く分からないし、貴方の名前も、年も、職業も、本当に何もかも分からない事だらけなんです。私の事を1番良く知ってそうな人は、元夫だったというあなたしかいないと思って……。今は頼れる人はあなたしか思いつきません。だから、少しの間ここに置いて下さい。ご迷惑をおかけしないように、私に出来る事を一生懸命頑張りますから。自分の事が少しでも理解出来、自分の力で生きて生けるようになったらすぐにでも出て行きますから。出来るだけ早くそうなるように努力しようと思いますから。それまでお願いします。身勝手な事だと思いますが、どうか力を貸して下さい」
聖愛はもう一度深々と頭を下げた。どうやら私はかなり嫌われているようなので、あまり長く留まる事は出来ないかもしれない。だから早く自分を取り戻して、自立して、ここを出て行かなければ……。
嶺司は、背筋がゾクッとした。俺の知っているあの女とは、本当に別人じゃないか……。同じ人物とは本当に信じられない気持ちだと思った。
「何も分からないのだから仕方ないが、お前は回りの者にかなり迷惑をかけて来たし、かなり人の恨みや憎しみを買って生きて来た様な奴だった。本当ならば面倒を見る事もごめん被るという気持ちだが、身寄りも無く、このまま放任する訳にも行かないし、暫くの間だけは使用人(ハウスメイド)としてここに置いてやる事にしよう。だが、迷惑をかけられたり、不快に感じるような揉め事を起したりすれば、即、ここから出て行って貰うから。その事を忘れないように」
またこの女と関わりを持つ事には本当にゾッとするが、厄介者は突き放して目の行き届かない所に置くよりも、手元に置いて、監視しておいたほうがいいかもしれない。これも演技なのかも知れないし油断はならないな……。嶺司は過去のおぞましい聖愛の姿を思い浮かべ、気を引き締め直した。
「はい、ありがとうございます」
初めて顔を会わせた時と比べると、少し険しい表情も和らぎ、ピリピリした空気は緩和されてきたが、元夫の素振りと表情から、明らかに歓迎されない者だという事が、ありありと伝わってくる。
それに、とてもショックだった。元夫の言葉から浮かび上がってくる自分の過去の姿……。なんて人だったのだろう……。自分の過去の姿が見えてくる毎に、消えて無くなってしまいたいような気持ちになる。よっぽど酷い人だったのね?私って……。
「一体お前に何が出来るのか?出来る事があるのか?働いた事も、家事も一切やった事のないような、以前のお前からは、全く想像もつかないが。まあ、何事も努力と経験の積み重ねだ。色々やらせてみて様子を見る事としよう。とりあえず渡部の指示に従う様に」
「はい。分かりました。よろしくお願いします」
元夫に直接聞く気持ちも勇気も湧かなくて、これから住まわせてもらう事になる部屋に案内される途中、渡部さんに少しだけ夫についてや、気になる事を聞いてみた。
元夫の名前は藤城嶺司(ふじしろ れいじ)、32歳、貿易関係の会社を経営、1年前に私達は結婚、半年後にはもう離婚となってしまったらしい。離婚後”藤城”姓を名乗っているという事は、私は改姓はしなかったようだ。
「渡部さんは、私がここに住んでいた時の事もご存知なのですよね?」
「はい。ある程度は把握してますが……」
どこを見ても見事としか言いようのないこの屋敷に、ついつい目を奪われてしまい、気が付けば歩調が遅れ気味になって、時々小走り気味に歩調を合わせながら、渡部さんから遅れないようにと気を配りながら付いて行く。聞かなければいけない事、知りたい事は山ほどある。
「あの、お時間のある時に、私の事を色々教えて欲しいのですが……」
「と、申しますと?」
「さっきあの方が話していた、私の父の事とか……。確か服役中だと言ってましたが……。他には私の実家の事や、交友関係とか、私がどんな人だったのかとか、何でも良いのです。私に関しての思い付く事全てを知っている範囲でいいので教えて欲しいのです」
「そうですね……。記憶が無いとお知りになりたい事は山のようにあるでしょうね。人物像とか、主観的で個人的な意見は私の口からは申し上げられませんが、簡単な経歴程度の内容でしたらご協力してもいいですよ」
「ありがとうございます。とても助かります」
「では、後ほど……」
渡部は、白い扉の前に立ち止まって、ノブに手をかけた。
「この様な場所を使って頂く事になるのは、申し訳ないのですが……」
ガチャリと開けて、渡部がライトのスイッチを入れて、明るくなった部屋を見た時少し驚いた。
そこは、元私の部屋だったと言う部屋に作り付けられているウォークインクローゼットだった……。使用人扱いなのだから、家人の居住スペースや客間を使用する事は、他のメイド達にも示しがつかないだろうし、当然といえば当然だ。
最近は、住み込み家政婦という形体が減りつつあり、この家でも使用人の為の部屋というものはないらしい。それで、ここを宛てがわれたようだ。ここで働いている使用人は、早番と遅番の交代制で、料理は通いのシェフ、庭は専属のガーデナーが定期的に管理、その他定期的に来る業者など多種多様のようだ。
ウォークインクローゼットは、大きさは7.5畳ぐらいでかなり広い。部屋の両端一面に、ハンガーパイプと作り付けの棚が並ぶ。がらんどうで一切何も無い状態。壁面上部に飾り小窓が一つだけ付いている。この為、日中でもライトを付けないと薄暗い。そこにシングルサイズのエキストラベッドを入れてくれた。出入りは廊下側の扉を使用する事。洗面とトイレとお風呂は、部屋に通じる側の扉から出入りして元私の部屋だった所のを使用しても良いとの事だった。但し、毎日綺麗に自分で掃除して、他の使用人が仕事を終えて屋敷を出て行ってから、お風呂は目立たないように使用する事。洗面とトイレとお風呂以外部屋の中の家具などは使用禁止、触ってもいけないとの事だった。使用人となる身だから、当然といえば当然だ。
食事はメインダイニングルームの隣に、大きなキッチンと食品庫と小さな控室があり、その控室で各自交代で食事を取るそうだ。
元私の私室だったと言う部屋は、天蓋付きの大きなベッドも豪華な彫刻の家具類も何もかも見覚えが無かった。
離婚後私が残して行った私物は全て処分されて、今は何も残っていないそうだ。全く記憶に無いし、惜しいとか悲しいとかそんな感傷的な感情はあまり沸き上らないけれど、自分の事を知る手がかりを失ってしまったのは残念だ。もしかしたら日記とか写真とか、過去の私を知る手がかりがあったかもと思うと、今更ながら後悔先に立たず、本当に残念でならない。
「それから身の回りの必要な物はこれで揃えるようにと、これをお預かりしてますので……」
渡された物は、お金の入った封筒だった。結構な厚みがある。
あの方がこれを?優しい親切な人だなと思った。気が付けば私は何も持っている物がない。バッグ一つさえ……。入院中の病院代だってお世話になってしまった。いつかこのご恩返しをしなくては……。
「お店まで、お車でご案内致しましょうか?」
「何から何まで、ほんとうにすみません。早く自立出来るように、明日から一生懸命頑張りますので」
明日から、私の新しい1日が始まる。
(第4話に続く)
「……………………」
跪いて元夫にお願いしてから暫くの間、沈黙が続いた。
「おまえ……。本当に記憶喪失なのか?!」
顔を上げると、元夫は、先程の冷ややかな瞳とは一転して、狐につままれたような驚きの表情に変化していた。
嶺司は酷く困惑していた。この女がこんなに従順で、しおらしいはずがない。やはり記憶喪失というのは本当だったのか?姿形はあの女だが、まるで別人のようだ。別れる時に十分すぎるほど渡した金銭も底を尽き、寄生虫や蛭のように、私に接近し、隙あらば甘い汁をむさぼり食い、吸い取ろうと、何か企んでこんな騒ぎを起したのだとてっきり思っていた。
そんなこともあろうかと、別れる時には念には念を入れ、念書も書かせ、今後一切何の関わりもないと言う確約を取らせてはいるし、法律的には何らこの女の面倒を見る義務も謂れもないが……。それでも、企業のトップとなれば、世間の目から見れば公人に近い存在。とりあえず、この女の腹の内を探る為と、必要最低限の援助はしたと言う世間へのパフォーマンスも兼ねて、この女をここに呼び寄せた。
刺々しい険しさも消えて、まるで、純真無垢な感じにさえ見えるではないか。どうなってるんだ。あの女の本質は、今の姿と昔の姿と、どっちが本当なんだ!!
「私、何も分からないんです。自分の年も誕生日も知らないし、藤城聖愛だと言われても、本当に私の名前なのかと、信じられない様な気持ちなんです。あなたと私は結婚していたのですか?そして離婚したのですか?私はここに住んでいたのですか?自分が何者なのかも全く分からないし、貴方の名前も、年も、職業も、本当に何もかも分からない事だらけなんです。私の事を1番良く知ってそうな人は、元夫だったというあなたしかいないと思って……。今は頼れる人はあなたしか思いつきません。だから、少しの間ここに置いて下さい。ご迷惑をおかけしないように、私に出来る事を一生懸命頑張りますから。自分の事が少しでも理解出来、自分の力で生きて生けるようになったらすぐにでも出て行きますから。出来るだけ早くそうなるように努力しようと思いますから。それまでお願いします。身勝手な事だと思いますが、どうか力を貸して下さい」
聖愛はもう一度深々と頭を下げた。どうやら私はかなり嫌われているようなので、あまり長く留まる事は出来ないかもしれない。だから早く自分を取り戻して、自立して、ここを出て行かなければ……。
嶺司は、背筋がゾクッとした。俺の知っているあの女とは、本当に別人じゃないか……。同じ人物とは本当に信じられない気持ちだと思った。
「何も分からないのだから仕方ないが、お前は回りの者にかなり迷惑をかけて来たし、かなり人の恨みや憎しみを買って生きて来た様な奴だった。本当ならば面倒を見る事もごめん被るという気持ちだが、身寄りも無く、このまま放任する訳にも行かないし、暫くの間だけは使用人(ハウスメイド)としてここに置いてやる事にしよう。だが、迷惑をかけられたり、不快に感じるような揉め事を起したりすれば、即、ここから出て行って貰うから。その事を忘れないように」
またこの女と関わりを持つ事には本当にゾッとするが、厄介者は突き放して目の行き届かない所に置くよりも、手元に置いて、監視しておいたほうがいいかもしれない。これも演技なのかも知れないし油断はならないな……。嶺司は過去のおぞましい聖愛の姿を思い浮かべ、気を引き締め直した。
「はい、ありがとうございます」
初めて顔を会わせた時と比べると、少し険しい表情も和らぎ、ピリピリした空気は緩和されてきたが、元夫の素振りと表情から、明らかに歓迎されない者だという事が、ありありと伝わってくる。
それに、とてもショックだった。元夫の言葉から浮かび上がってくる自分の過去の姿……。なんて人だったのだろう……。自分の過去の姿が見えてくる毎に、消えて無くなってしまいたいような気持ちになる。よっぽど酷い人だったのね?私って……。
「一体お前に何が出来るのか?出来る事があるのか?働いた事も、家事も一切やった事のないような、以前のお前からは、全く想像もつかないが。まあ、何事も努力と経験の積み重ねだ。色々やらせてみて様子を見る事としよう。とりあえず渡部の指示に従う様に」
「はい。分かりました。よろしくお願いします」
元夫に直接聞く気持ちも勇気も湧かなくて、これから住まわせてもらう事になる部屋に案内される途中、渡部さんに少しだけ夫についてや、気になる事を聞いてみた。
元夫の名前は藤城嶺司(ふじしろ れいじ)、32歳、貿易関係の会社を経営、1年前に私達は結婚、半年後にはもう離婚となってしまったらしい。離婚後”藤城”姓を名乗っているという事は、私は改姓はしなかったようだ。
「渡部さんは、私がここに住んでいた時の事もご存知なのですよね?」
「はい。ある程度は把握してますが……」
どこを見ても見事としか言いようのないこの屋敷に、ついつい目を奪われてしまい、気が付けば歩調が遅れ気味になって、時々小走り気味に歩調を合わせながら、渡部さんから遅れないようにと気を配りながら付いて行く。聞かなければいけない事、知りたい事は山ほどある。
「あの、お時間のある時に、私の事を色々教えて欲しいのですが……」
「と、申しますと?」
「さっきあの方が話していた、私の父の事とか……。確か服役中だと言ってましたが……。他には私の実家の事や、交友関係とか、私がどんな人だったのかとか、何でも良いのです。私に関しての思い付く事全てを知っている範囲でいいので教えて欲しいのです」
「そうですね……。記憶が無いとお知りになりたい事は山のようにあるでしょうね。人物像とか、主観的で個人的な意見は私の口からは申し上げられませんが、簡単な経歴程度の内容でしたらご協力してもいいですよ」
「ありがとうございます。とても助かります」
「では、後ほど……」
渡部は、白い扉の前に立ち止まって、ノブに手をかけた。
「この様な場所を使って頂く事になるのは、申し訳ないのですが……」
ガチャリと開けて、渡部がライトのスイッチを入れて、明るくなった部屋を見た時少し驚いた。
そこは、元私の部屋だったと言う部屋に作り付けられているウォークインクローゼットだった……。使用人扱いなのだから、家人の居住スペースや客間を使用する事は、他のメイド達にも示しがつかないだろうし、当然といえば当然だ。
最近は、住み込み家政婦という形体が減りつつあり、この家でも使用人の為の部屋というものはないらしい。それで、ここを宛てがわれたようだ。ここで働いている使用人は、早番と遅番の交代制で、料理は通いのシェフ、庭は専属のガーデナーが定期的に管理、その他定期的に来る業者など多種多様のようだ。
ウォークインクローゼットは、大きさは7.5畳ぐらいでかなり広い。部屋の両端一面に、ハンガーパイプと作り付けの棚が並ぶ。がらんどうで一切何も無い状態。壁面上部に飾り小窓が一つだけ付いている。この為、日中でもライトを付けないと薄暗い。そこにシングルサイズのエキストラベッドを入れてくれた。出入りは廊下側の扉を使用する事。洗面とトイレとお風呂は、部屋に通じる側の扉から出入りして元私の部屋だった所のを使用しても良いとの事だった。但し、毎日綺麗に自分で掃除して、他の使用人が仕事を終えて屋敷を出て行ってから、お風呂は目立たないように使用する事。洗面とトイレとお風呂以外部屋の中の家具などは使用禁止、触ってもいけないとの事だった。使用人となる身だから、当然といえば当然だ。
食事はメインダイニングルームの隣に、大きなキッチンと食品庫と小さな控室があり、その控室で各自交代で食事を取るそうだ。
元私の私室だったと言う部屋は、天蓋付きの大きなベッドも豪華な彫刻の家具類も何もかも見覚えが無かった。
離婚後私が残して行った私物は全て処分されて、今は何も残っていないそうだ。全く記憶に無いし、惜しいとか悲しいとかそんな感傷的な感情はあまり沸き上らないけれど、自分の事を知る手がかりを失ってしまったのは残念だ。もしかしたら日記とか写真とか、過去の私を知る手がかりがあったかもと思うと、今更ながら後悔先に立たず、本当に残念でならない。
「それから身の回りの必要な物はこれで揃えるようにと、これをお預かりしてますので……」
渡された物は、お金の入った封筒だった。結構な厚みがある。
あの方がこれを?優しい親切な人だなと思った。気が付けば私は何も持っている物がない。バッグ一つさえ……。入院中の病院代だってお世話になってしまった。いつかこのご恩返しをしなくては……。
「お店まで、お車でご案内致しましょうか?」
「何から何まで、ほんとうにすみません。早く自立出来るように、明日から一生懸命頑張りますので」
明日から、私の新しい1日が始まる。
(第4話に続く)