緋~隠された恋情
病室に入ると、

眠っていると思っていた平がこっちを向いて、


「誰?」


と言葉を発した。


その声は今まで私に向けられた

高圧的な強気な声とはまるで違う、

気弱な声だった。



「植木先生?」


そばによって話しかけると、


「君は誰?


 君は知ってる?

   

 僕はいったい誰なんだろうか」



そこにいるのは確かに平なのに

まるで別の人だった。



病院からは赤の他人の私には

詳しいことは教えてもらえなかったけれど


意識障害だけでなく

記憶も失っているというのだ


それが一時的なものなのか、

永久に失われてしまったのか


目の前の彼から何も汲み取ることできない。



私が、大変でしたねとかけた声に、

「ありがとう。」

と穏やかな笑顔で答えてくれた。

平の名前や、どんな仕事をしていたか、

兄と同級生だったこと、

今日会うことになっていたこと。

など、

当たり障りのない事実を話すと、

何も覚えてないことを申し訳ないと、

何度も謝り、

感謝した。

こんな平を初めて見たし、

とても同一人物とは思えない。


途中で、看護師さんが入ってきて、

病室を出ようとすると、


「今日は来てくれてありがとう。」

と声をけられ、


「お大事に」

と笑顔を作って答えた。

まるで別人のような変貌に、

ちりちりと胸が痛んだ。

そして、


これが彼と交わした

最期のことばとなった。



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