ホーリー 第一部

 生きづらい。世界がくだらないから?ぼくがわがままだから?ときどき、順応できない魂が憎くなる。それでも、こんなわけのわからない世界でも、救いのような、僅かな可能性のようなものがある。18歳のとき、ぼくは都会に出て、学校で歴史を学んでいた。やっぱりそこで学べることは当たり障りのないことばかりで、世界がおかしくなった経緯とか、不吉な“霧”に関する新紀元前のことは一切学ぶことができなかった。学校の大きな図書館にもそういった書物を見つけることはできなかった。霧がかかっていて、題名すらわからない本なら何冊か見つけることができたのだけれど。ともあれ、そこで出会ったふたつ年上の先輩が、その“救いのようなもの”を教えてくれた。“円盤”だ。そして“抜け道”。そう、あの仔には知らないふりをしたけど、ほんとうは知っていたんだ。希望があることを。その虚しさも、イヤというくらい。

 先輩は名前を“デニム”といった。学校で部活動の見学をしていたときに彼に出会った。彼は器学部という部に所属していた。こんな御時勢に。なんの意味もないのに。彼らは何処で見つけてきたのか、ひとつのアコースティック・バンドが組めるだけの、打楽器、ギター、ベースを揃えていた。ギターにいたっては二本あった。ルートは、内緒だという。彼がある組合(?よくわからないが)から譲り受けたのだという。そこでぼくは見た。彼らのバンドが鳴らす音を、音楽を。どういうわけか、歌が、楽器の音色が、心に入ってきた。はじめての音楽に、胸を打たれた。そしてなにより、彼らの熱情にからだが痺れた。デニムさんの歌は、クールで、ひねくれてて、けっきょく熱くて、かっこよかった。ぼくははじめて音楽というものに触れたことよりも、彼の歌が聴けたことにうれしくなっていた。

 みんなが帰ったあと、ぼくは一度家に帰ってから、詩を書き溜めていたノートを持ってデニムさんの家に出かけた。カンカン、と襤褸アパートの階段を駆け上り、二階にあがってすぐの彼の部屋をノックした。

 「とんとんとん」

 しばらく待つ。足音がこちらに近づき、かちゃりと、扉が開く。

 「おお」

 低い声。安心感を感じさせる声。で、すこし照れくさそうに部屋に入れてくれる。

 「あの、これ、よかったら読んでください」

 腰を落ちつけるなり、唐突に、脈絡も何もなくぼくは言った。それだけ、心が逸っていたのだ。そして、彼らの音楽が聴けたのだから、もしかしたらじぶんの詩も読んでもらえるかもしれないなどと考えていた。

 「お、おお」

 彼はぼくのとつぜんの無礼に、戸惑いながらも親切に応えてくれた。

 「ううむ、読めねえばい」

 そう言いながらも、霧がかかった文字をジロジロと真剣に見つめてくれた。

 「まあ、まずは一杯どうよ」

 ひとしきり、頁をめくってから、彼は缶ビールを差し出した。

 「あ、ありがとうごさいます!」

 未成年だったけど、ありがたく受け取った。缶と缶とを無言で寄せ合い、乾杯をする。

 「あの、デニムさんの歌、かっこよかったです。じぶんの詩も、読んでもらいたかったのだけど」

 お互いに、ぐいっと二口三口呑んでから、もじもじと声をかけた。読めもしないのに、ノートを持ってきてしまったことが恥ずかしかったから。

 「しゃあねえばい。あれは裏技みたいなもんやから」

 彼自身への褒め言葉はしれっと受け流しつつ、こちらを気遣うような表情をしていた。

 「裏技って、、どういうことなんですか?」

 「ん~、風水っちゅうか、なんちゅうか、実際よくはわかっとらんっちゃ。ただ、あの部屋だけがそういう風になってるみたいばい」

 「ん~、あ、あと、楽器を用意してくれた組合?っていったいなんなんでしょうか?」

 「ああ、そればい。あれが楽器を置きに来たときに、なんかいろいろ細工しよったみたいばい。あれのことは、詳しくは教えられんっちゃけど、なんか“抜け道”っちゅうのを探してる団体なんやとさ」

 「“抜け道”ですか。そんなものがあるんですね。にしても、デニムさん、かっこよかったっす」

 「・・・」

 しばし沈黙を置いてから、

 「まぁあれは大体みんな音楽が好きみたいっちゃ。やけん、これを何枚かあげる代わりに部活の土   台を用意してもらったんばい」

 スルーする。そして、棚に並んである古びた品々を手で指し示した。

 「えっと、それは?」

 「ああ、知らんと?“円盤”ばい」

 そう言って、おもむろに棚からひとつ抜き出して、紙袋の中から黒い円盤を取り出し、見たことのない機械にセットした。

 「ジジジ、、、」

 と音がして、

 「・・・ん・・・わあ!音楽だ!」

 ぼくはそう叫んでから、心に飛び込んでくる音楽に身を預けきった。歌ってる言葉は古代の言葉で、てんで意味なんてわからなかったけれど、スリリングで硬質な夜の音が、不真面目で艶かしい声が、心に鋭く憑き刺さった。そのあたらしい衝撃がうれしくて、はじめて生きてる心地がした。じぶんのずっと欲しかったものが、ここにあるのだと想った。


 “円盤”遠い古代の音楽の記録媒体らしい。近世のデータ化された音楽媒体は、すべて霧がかかって聴けなくなった。それでも、円盤に直接音を書き込んでいるらしいこの記録媒体は、それ自体がたまたま結界魔法の陣にもなっていて、霧の魔の手を逃れているらしい、とのことだった。棚に並んでいたデニムさんの“円盤”はみんな実家の蔵に眠っていたものらしい。彼は“円盤”で歌われている古代言語を学ぶために、学校に入って、古代言語学を専攻しているのだと云っていた。

 marquee moon/television。その日聴かせてくれた“円盤”の題名と演奏者を、彼はそう教えてくれた。


 それからぼくは彼が造った器学部に入って、部室や彼の部屋に通うようになった。そこでぼくはいろんな古代の音楽を教わった。joy division,sid barett,the doors,the velvet underground,,,,あげたらきりがない、とかく大好きな音楽をたくさん教えてくれた。彼からすこし古代言語も習って、すこしだけなら歌の意味もわかるようになっていった。考えたこともないようなこと、聞いたこともない音、ずっと欲しかった感触、探していたことば、そのとき出会ったすべてがあたらしくて、刺激的だった。今思えばえば、いつだってキラキラしていたと思う。ワクワクがいっぱいで。うれしさが溢れそうで。

 もちろん、ただ“円盤”を聴いていただけじゃなくて、じぶんでもギターや歌を練習した。拙いながらも、じぶんで曲を造って、先輩たちに聴いてもらったりしていた。先輩たちはぼくのことを可愛がってくれて、その上よき理解者でもあろうとしてくれた。つまらない学校の授業にふてくされて、腹立つことばっかりで、奇行が増えて、次第に学科で居場所を失くしていったぼくを暖かく受け入れてくれた。しかも歌い手として一目置いてくれていた。てんで下手糞で、ロクでもないぼくのことを。ぼくがじぶんの感性を研ぎ澄まして造った歌を、いつも彼らは親身になって聴いてくれた。そのときはそれがとてもうれしくって。彼らのバンドもかっこよくって。みんな楽しい人たちで。何回か部室にお客さんを呼んで、ライブイベントを開いたこともあった。夢のような日々だった。そう、ほんとに甘くて泡みたいな夢だった。

 二年経ったころ、ぼくはじぶんの音楽を求め続けることに早くも疲れ始めていた。歌や詩を紡ぐことに、今以上に神経質になっていたのだと思う。それになによりも、とても虚しい、空々しい事実を知ってしまったことが大きかった。部室の不思議な魔法には、致命的な限定条件があった。仲間内にしか作用しないということ。イベントに呼んだお客さんも、けっきょくはみんなともだちで、しかもすでに音楽が好きな人たちばかりだった。要するに、そういう人にしか、あの“裏技”は通用しなかったのだ。夢が、大切な想い出すらも、ガラガラと崩れ落ちていくような気持ちになった。ほんとうは、そんなことなんてないはずなのに。大切なことは、なにがあってもずっと大切で。うれしかったことも、ずっとうれしいはずなのに。ぼくはいつからか歌うことに“意味”を求めていた。世界に、この狂った世界に働きかけることを欲していた。この世界の帳の先に、駆け抜けたいと想うようになっていた。あるいはそれが最初の衝動だったか。けれどもその“裏技”は“抜け道”ではなかった。道はどこにも通じてなんかいなかった。“抜け道”だと想って進んだその先には、ただ空虚などん詰まりだけがあった。そして止めを刺すように、部の楽器が続けざまに壊れた。デニムさんは例の組合とやらに何度も連絡をとろうとしたけれど、一切連絡がつながることはなかった。その頃、街を流れる川で、霧にまみれた水死体がいくつもあがった。水死体の身元が確認できることはなかった。

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