ホーリー 第一部
第五話 きおくのかなた
穏やかで、眠たげな静寂だった。空気がやんわりと湿って、無言の薄明が窓から射し込んでいた。サアサアと、枝や葉に雨の触れる音がやわらかく響いては辺りを包み込み、その紗のような音のヴェールのなかで、大粒の滴がポツポツ、ポツポツ、と断続的な子守唄を歌っていた。滴が織り成す変拍子も、基調を成しているやわらかい雨音も、すべてが穏やかで、しめやかで、気だるくはない仄暖かい眠気を誘っていた。その甘く儚い感触も、無言の内にか細い光を示す雨の日の薄明も、すべてが少年にとってとても慕わしいものに想えるのだった。
―――――
「ねぇ、シェフ、、、雨が降っているのは、お空の住人が泣いているのか、天使がジョウロで水を撒いているのか、どっちだと想うにゃ?」
手をつないで、ふたりでゴロゴロしていると、唐突に、仔猫の少女は神妙な面持ちで尋ねるのだった。
「天使がジョウロで水を撒いている」
即答だった。どちらも、仔猫の少女らしいやわらかい発想だったけれど、その日はとても大切なことがあった日だったから、とても幸せな気持ちになれた日だったから、仔犬の少年にはその答えしか到底考えられなかった。
「にゃふふ~」
少女はほんとうにうれしそうに、神妙に笑ってから
「ふつうはね、こんなこと言ったら、なに言ってるにゃって言われるのに、シェフはまじめに答えてくれるんにゃね」
しみじみと、深い調子で云った。少年は、あたりまえに答えたつもりだったけれど、少女はそのちいさな、ごくごくありきたりな“肯定”に、ほんとうに感謝しているみたいだった。その様子に、当時の少年は、少女のことをなんてかけがえのない存在なんだと想った。今想えば、そのとき、その根っこにあるものについて、もっと深く考える必要があったのだろうけれど。あたりまえのことがあたりまえ以上にうれしいということは、ある意味ではとても哀しいことでもありうるのだから。
―――――
一年ほどまえ、空気がすこしひんやりとし始める、秋口のひき明け方どきのことだった。その日の前日から、仔猫の少女はうさぎたちを連れて、少年の元へ遊びに来ていた。初めて四人で過ごした夜だった。四人が初めて川の字になれた日でもあった。そして、うさぎたちが先に眠ってしまったあとも、眠るのがもったいなくって、うれしくって、しあわせで、ずっと手をつないだり、顔やからだを寄せ合ったり、なでなでし合ったりしていた。魔法の水ですこし酔っ払っていた少女は、少年のわきの下をうにゃうにゃと小突いたり、耳をにゃふにゃふと甘噛みしたり、とりとめのないちいさないたずらを何度もくり返すのだった。うっすらと、穏やかに夜が明けていく中で、紗のような雨音がふたりをやんわりと包んでいた。その光景はほんとうに仔犬と仔猫が無邪気にじゃれあっているようだった。そして少年は、水細工の唇に触れるように、できるだけ静かに、精一杯の魔法を籠めて、そっと少女に接吻した。雨脚のあわいを縫って、幽かな光が、ふたりを強く照らしていた。“番う”ということばの意味が、其処にはある気がした。ひとつになるとかどうとか、そういうことじゃなくって、もっと暖かい希望が、其処にはあるような気がした。
ひとしきり、そんな物想いに耽ってから、少年は窓の向こうにふと目をやった。森の中に、きめ細やかな雨脚のスクリーンがサアサアと広がっていた。一本一本の雨脚が、朝空に浮かぶ緋色の煙のように淡くて、また、その微かな身じろぎのようにか細かった。そんな繊細で幽美な雨脚が何千本も、何万本も、森の中に広がっていた。映像を転写するには、申し分ない解像度数だった。
なにも映さずに、透き通ったままのスクリーンを眺めながら、少年は、心をひとつにして祈った。なにか意味のある、予感めいたものがじぶんを導いてくれるようにと。
「デボレ デ ボレ ドゥ~」
少年は、四人の、約束の呪文を歌った。
―――――
「ほら、四人が集まればそこに“おうち”ができるよ」
仔犬の少年が、うさぎたちといっしょに何がしかの準備をしながら、誇らしげにそう言った。少年と少女、それから大きなうさぎとちいさなうさぎの四人は、薄暗い、殺風景な洞窟の中にいた。その中で、うさぎたちが率先して、いそいそと、ぴょこぴょこと、のそのそと、その準備をとり進めていた。地面に大きく描かれたまんまるいわっか、その中に吊るされていく色とりどりのまあるい飴玉、四方から、わっかの中を見護るように浮かぶ、かぼちゃ、きのこ、ふくろう、こうもりのランプ、それから、わっかの中心には大きな椿の花が広げられた。
「ほにゃあ~~」
すべての準備が終わって、少女の顔がふんにゃりとほころぶ。わっかの中の飴玉が、きらきらと光って夜空の星みたいで、地面に描かれたまんまるいわっかがとても暖かかった。そして、中心に広げられた椿の花が、洞窟中にうっすらと広がった不吉な霧を、静かに、ゆっくりと浄化していくのだった。
「ねえ、シェフ、お腹空いてないかにゃ」
「あ、、うん、お腹空いたね」
「にゃふふ、じつはお弁当、つくって来たのにゃ」
「え!ほんとう?」
「にゃ、にゃ、うさこちんとちびうさには、甘いにんじんを持ってきたにゃ」
「でかしたぞ、ピノよ(-ω-)ノ」
「わ~っ、ピノ!ありがとう(・ω・)ノ」
「ありがとう、うれしいな~」
ぱくぱく、かりかり、もそもそ。ぱくぱく、かりかり、もそもそそそ。少年とうさぎたちは三者三様に、少女のつくってくれた料理を食べるのだった。
「おいしい!なんだかひさしぶりに生きてる気がするのだ」
きゃべつ、にんじん、もやし、ニラ、それからエリンギをごま油で炒めただけの料理だったけれど、なぜだかとてもおいしくて、少年は今“いのち”を食べてるのだということをひしひしと感じていた。
「うむ。ピノがくれたにんじんはうまいのぅ(-ω-)ノ」
「んにゃんにゃ、やさいはぜんぶ、ピノの手づくりなのにゃあ」
少女はしっぽをうにょうにょとうにゃらせながら、誇らしげに言う。
「うん、おいしいね!さいきんシェフは魔法工学でつくったレトルトにんじんばっかりしかたべさせてくれなかったんだよ~(・ω・)」
ちいさなうさぎは、ちらりと、いじわるそうな眼差しで少年のほうに目をやる。
「ん~、ごめんね。でもそれはシェフもおなじでさ、、、なんだか心がちょっとずつ濁っていって、お部屋も汚れるばっかりで、、、ごはんも生活も、ぜんぶがもうどうでもよくなってしまっていたんだ。うさぎたちのことまで、、大切にできないくらいにね、、、でも、うふふ、ピノはいっつもシェフに大切なことを想い出させてくれるね」
「うむ、シェフよ。それがわかれば良いのじゃぞ。もっとわてをおそれうやまうのじゃ(-ω-)ノ」
ここぞとばかりに、大きなうさぎはふんぞり返って言うのだった。
「うん。ま、うさこちんはほっとくとして、そうだね、シェフ。ピノはいっつも大切な光をくれるね。ちびうさはシェフが“じぶん”をとりもどしてくれてうれしいよ。それに、この四人のおうち“まんまるドロップ”だって、ピノがいて、四人がそろってはじめて、ほんとうの暖かい意味を持つんだよ(・ω・)ノ」
ちいさなうさぎは、ひとことひとことを大事にしながら、和やかに、そして神妙に云った。それでも、大きなうさぎは相も変わらず「そうだ、そうだ~!わてをもっとあがめたてまつるのじゃ~!(-ω-)ノ」などとわけのわからない茶々を差し込んできたのだけれど。そして、その光景がまた暖かくて“まんまるドロップ”のなかで、少年も少女も、これ以上にないくらいやわらかい夢見心地に包まれるのだった。
――――――
それは、見たこともないはずの光景だった。それなのに、なぜかとても懐かしくて、心の何処か深いところからわけもわからないくらいに、うれしいような哀しいような、ベクトルすら定まらない感情の大きな波が押し寄せてくるのを感じていた。
少年はまばたきをひとつして、スクリーンのスイッチを切った。目に、涙が溢れていた。これは何の記憶なのか。少年にはわからなった。でも、これは“想い”だと確信できた。間違いない、じぶん自身のかけがえのない想いであり、また重要な予感でもあるのだと感じた。少年はすぐに寝巻きから着替え、きれいな川の水で洗い清めたばかりのワインレッドのマントを羽織って、黒いこうもり傘を持って、魔法樹の館を発った。
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「ねぇ、シェフ、、、雨が降っているのは、お空の住人が泣いているのか、天使がジョウロで水を撒いているのか、どっちだと想うにゃ?」
手をつないで、ふたりでゴロゴロしていると、唐突に、仔猫の少女は神妙な面持ちで尋ねるのだった。
「天使がジョウロで水を撒いている」
即答だった。どちらも、仔猫の少女らしいやわらかい発想だったけれど、その日はとても大切なことがあった日だったから、とても幸せな気持ちになれた日だったから、仔犬の少年にはその答えしか到底考えられなかった。
「にゃふふ~」
少女はほんとうにうれしそうに、神妙に笑ってから
「ふつうはね、こんなこと言ったら、なに言ってるにゃって言われるのに、シェフはまじめに答えてくれるんにゃね」
しみじみと、深い調子で云った。少年は、あたりまえに答えたつもりだったけれど、少女はそのちいさな、ごくごくありきたりな“肯定”に、ほんとうに感謝しているみたいだった。その様子に、当時の少年は、少女のことをなんてかけがえのない存在なんだと想った。今想えば、そのとき、その根っこにあるものについて、もっと深く考える必要があったのだろうけれど。あたりまえのことがあたりまえ以上にうれしいということは、ある意味ではとても哀しいことでもありうるのだから。
―――――
一年ほどまえ、空気がすこしひんやりとし始める、秋口のひき明け方どきのことだった。その日の前日から、仔猫の少女はうさぎたちを連れて、少年の元へ遊びに来ていた。初めて四人で過ごした夜だった。四人が初めて川の字になれた日でもあった。そして、うさぎたちが先に眠ってしまったあとも、眠るのがもったいなくって、うれしくって、しあわせで、ずっと手をつないだり、顔やからだを寄せ合ったり、なでなでし合ったりしていた。魔法の水ですこし酔っ払っていた少女は、少年のわきの下をうにゃうにゃと小突いたり、耳をにゃふにゃふと甘噛みしたり、とりとめのないちいさないたずらを何度もくり返すのだった。うっすらと、穏やかに夜が明けていく中で、紗のような雨音がふたりをやんわりと包んでいた。その光景はほんとうに仔犬と仔猫が無邪気にじゃれあっているようだった。そして少年は、水細工の唇に触れるように、できるだけ静かに、精一杯の魔法を籠めて、そっと少女に接吻した。雨脚のあわいを縫って、幽かな光が、ふたりを強く照らしていた。“番う”ということばの意味が、其処にはある気がした。ひとつになるとかどうとか、そういうことじゃなくって、もっと暖かい希望が、其処にはあるような気がした。
ひとしきり、そんな物想いに耽ってから、少年は窓の向こうにふと目をやった。森の中に、きめ細やかな雨脚のスクリーンがサアサアと広がっていた。一本一本の雨脚が、朝空に浮かぶ緋色の煙のように淡くて、また、その微かな身じろぎのようにか細かった。そんな繊細で幽美な雨脚が何千本も、何万本も、森の中に広がっていた。映像を転写するには、申し分ない解像度数だった。
なにも映さずに、透き通ったままのスクリーンを眺めながら、少年は、心をひとつにして祈った。なにか意味のある、予感めいたものがじぶんを導いてくれるようにと。
「デボレ デ ボレ ドゥ~」
少年は、四人の、約束の呪文を歌った。
―――――
「ほら、四人が集まればそこに“おうち”ができるよ」
仔犬の少年が、うさぎたちといっしょに何がしかの準備をしながら、誇らしげにそう言った。少年と少女、それから大きなうさぎとちいさなうさぎの四人は、薄暗い、殺風景な洞窟の中にいた。その中で、うさぎたちが率先して、いそいそと、ぴょこぴょこと、のそのそと、その準備をとり進めていた。地面に大きく描かれたまんまるいわっか、その中に吊るされていく色とりどりのまあるい飴玉、四方から、わっかの中を見護るように浮かぶ、かぼちゃ、きのこ、ふくろう、こうもりのランプ、それから、わっかの中心には大きな椿の花が広げられた。
「ほにゃあ~~」
すべての準備が終わって、少女の顔がふんにゃりとほころぶ。わっかの中の飴玉が、きらきらと光って夜空の星みたいで、地面に描かれたまんまるいわっかがとても暖かかった。そして、中心に広げられた椿の花が、洞窟中にうっすらと広がった不吉な霧を、静かに、ゆっくりと浄化していくのだった。
「ねえ、シェフ、お腹空いてないかにゃ」
「あ、、うん、お腹空いたね」
「にゃふふ、じつはお弁当、つくって来たのにゃ」
「え!ほんとう?」
「にゃ、にゃ、うさこちんとちびうさには、甘いにんじんを持ってきたにゃ」
「でかしたぞ、ピノよ(-ω-)ノ」
「わ~っ、ピノ!ありがとう(・ω・)ノ」
「ありがとう、うれしいな~」
ぱくぱく、かりかり、もそもそ。ぱくぱく、かりかり、もそもそそそ。少年とうさぎたちは三者三様に、少女のつくってくれた料理を食べるのだった。
「おいしい!なんだかひさしぶりに生きてる気がするのだ」
きゃべつ、にんじん、もやし、ニラ、それからエリンギをごま油で炒めただけの料理だったけれど、なぜだかとてもおいしくて、少年は今“いのち”を食べてるのだということをひしひしと感じていた。
「うむ。ピノがくれたにんじんはうまいのぅ(-ω-)ノ」
「んにゃんにゃ、やさいはぜんぶ、ピノの手づくりなのにゃあ」
少女はしっぽをうにょうにょとうにゃらせながら、誇らしげに言う。
「うん、おいしいね!さいきんシェフは魔法工学でつくったレトルトにんじんばっかりしかたべさせてくれなかったんだよ~(・ω・)」
ちいさなうさぎは、ちらりと、いじわるそうな眼差しで少年のほうに目をやる。
「ん~、ごめんね。でもそれはシェフもおなじでさ、、、なんだか心がちょっとずつ濁っていって、お部屋も汚れるばっかりで、、、ごはんも生活も、ぜんぶがもうどうでもよくなってしまっていたんだ。うさぎたちのことまで、、大切にできないくらいにね、、、でも、うふふ、ピノはいっつもシェフに大切なことを想い出させてくれるね」
「うむ、シェフよ。それがわかれば良いのじゃぞ。もっとわてをおそれうやまうのじゃ(-ω-)ノ」
ここぞとばかりに、大きなうさぎはふんぞり返って言うのだった。
「うん。ま、うさこちんはほっとくとして、そうだね、シェフ。ピノはいっつも大切な光をくれるね。ちびうさはシェフが“じぶん”をとりもどしてくれてうれしいよ。それに、この四人のおうち“まんまるドロップ”だって、ピノがいて、四人がそろってはじめて、ほんとうの暖かい意味を持つんだよ(・ω・)ノ」
ちいさなうさぎは、ひとことひとことを大事にしながら、和やかに、そして神妙に云った。それでも、大きなうさぎは相も変わらず「そうだ、そうだ~!わてをもっとあがめたてまつるのじゃ~!(-ω-)ノ」などとわけのわからない茶々を差し込んできたのだけれど。そして、その光景がまた暖かくて“まんまるドロップ”のなかで、少年も少女も、これ以上にないくらいやわらかい夢見心地に包まれるのだった。
――――――
それは、見たこともないはずの光景だった。それなのに、なぜかとても懐かしくて、心の何処か深いところからわけもわからないくらいに、うれしいような哀しいような、ベクトルすら定まらない感情の大きな波が押し寄せてくるのを感じていた。
少年はまばたきをひとつして、スクリーンのスイッチを切った。目に、涙が溢れていた。これは何の記憶なのか。少年にはわからなった。でも、これは“想い”だと確信できた。間違いない、じぶん自身のかけがえのない想いであり、また重要な予感でもあるのだと感じた。少年はすぐに寝巻きから着替え、きれいな川の水で洗い清めたばかりのワインレッドのマントを羽織って、黒いこうもり傘を持って、魔法樹の館を発った。