ホーリー 第一部
第二話 霧について
靄の中を泳げたらよかった
川面はゆらゆらさざ波立てて
やわらかいひだが遠くまで広がって
とてもいい日だとおもった
道の上を歩けたらよかった
陽射しがうっすら雲間をぬって
あたたかい色まっすぐ投げかけて
とてもいい日だとおもった
牛乳を飲むストローみたいに
清くいられたらよかった
光へと伸びる樹木みたいに
賢くあれたらよかった
まるで自分のことのように、先日の夢のことを後悔していた。行き場のないことばをノートに書き付けた。少年は「まっすぐは無理でも・・・」と歌っていたけれど、ほんとうはまっすぐ道を歩くことができればそれが一番いいのだろう。それなのに、ぼくらはいつもくだらない失敗やしょうもない間違いを重ねる。ほんとうに反省なんてしているのだろうか。おなじようなことの繰り返しにだんだん厭気が積もっていく。それは心の底に沈殿して、たとえ表層を明るく取り繕っていても、浅く重い諦めが次第に手足を鈍重にさせていくのがわかる。なにをやっても無意味だ。どうせぜんぶ欺瞞だろう。そうやって呆れるほど愚かなニヒリズムに都合よく身を委ねてしまうのも、もうわりに時間の問題なのかもしれない。それどころかあの大切な夢の中の幸福すらも、今にも自分の手で壊してしまいそうな気がして云いようのない不安に襲われる。もう時間はあまりないのかもしれない。だからこそ光が死んでしまうその前に、光の中を駆け抜けなければならないのだ。そんな風に無方図な焦燥に襲われてベッドから身を起こす。いつもじぶんは間違っているという意識がうっすらとあって、いつだってそれをぬぐうために他人からの承認や賛辞を執拗に求めてしまう。そうやって他人の甘さにつけ込んで適当に赦されて、けっきょくなにをどうすればいいのかわからないまま、わからないフリをしたまま、ただらあらあと日々を繰り返す。繰り返しの螺旋の中で心は磨耗していく。無意味に死んでいく。代わりにだらしなさやぬるさやいやらしさが少しずつ膨らむ。風船みたいにプクプク膨らんで、ただ卑猥に宙空をまさぐる。そんな日々にはもう厭きた。こんな言葉にももう厭きた。とっくのとっくに厭き果てたんだ。おい!もういいだろう?なにをしている!?早くドアを開けろッッッ!!!!!
いつも通り。いつも通りだ。少しイラついて、あたりまえにむしゃくしゃして、大きく尖った動きで仕度を済ませる。まるで泥棒にでもなったみたいに、少しだけ開いたドアをすばやく摺り抜けて、そのままあっという間に鍵を閉める。手際のよさを自らに誇示してちっぽけな悦に浸る。わるいか。どうせぼくは気持悪いナルシストだ。どーせつまらない人間なのだから仕方ないじゃないか。そうやって自分に甘くなるしかバランスをとる術はないんだ。え?ハイハイ、わかってますよ~。どーせこれも「甘え」ってんでしょ?いいよ~、それでなに?ほんとどうでもいい。
少し取り乱して、あたまが混然としてくる。自分じゃない誰かにでもなったみたいな心地になる。根っこから変わり果ててしまった気がして、また強い不安を感じる。そうして澱んだ気分に身を任せながらも、ありのままじゃなく在りたい自分に向けて手綱を引きなおそうとする。たとえ嘘でも、つくりものでも、誠実で誰かに優しく在れたならそれがいちばん素敵だと想うから。安アパートを離れて、静かな夜の町を歩く。ブラブラと独りで歩く。誰もいない旧い家並みをヒッソリとくぐり抜ける。寂れた路地をポツポツと歩く。静まりかえった一帯に、自分自身の息遣いや衣擦れの音までもが響き渡る。遠くから蛙声が鳴って、風に揺れる草の音やその匂いと混じって、何処か懐かしげな五月の幽愁を奏でている。うん。夜は静かで、きれいだから好きだ。心の表面はだいぶ穏やかになって、ほのやわらかい気分で町をブラつく。
マンホールの上に立ち止まって、なんとなく下水の音色に聴き入ったり、うっすらと霧がかかった夜空を眺めたりする。小さな頃は星空はもっと透き通ってきれいだったのに、この二、三年くらいからだろうか、空にかかる霧のおかげで見える星も少しずつ減っている。それでも空はやっぱりきれいで、ぼんやりとした天蓋の向こうではたくさんの光がきらきらと歌なんぞ唄ってる。多種多様。十人十色。耳を澄ませば、いや目を凝らせば、それぞれの表情の違いがなんとなく感じ取れるような気がしてくる。空に溢れる音楽にまた少し楽しくなって、空を見上げながらフラフラと歩く。と、流れ星がひとつ、走る。ものすごい勢いで。その身を激しく燃やしながら。崩壊運動を猛スピードで続けながら圧倒的な速度で駆け抜ける。その姿に哀しさと美しさを同時に感じる。その運動のいったい何処からが星自身の意思なのだろうか。それは絡めとられた運命の中で必死にもがいているようにも見えるし、なりふりかまわず信念のまま疾走しているようにも見える。どちらにしても、そのメロディーはあまりに尊かった。力強くて、なにより優しかった。だからこそ、それをぼやけさせてしまう、その存在を隠そうとでもしているみたいな霧の天蓋におもっクソ腹が立った。いつかその首根っこを掴んで想いっきり唾をはきかけてやりたいと想った。それがなんにもならないことも知っているし、どうすればいいのかなんかもてんでわからないのだけれど。そもそもぼくもまたその霧と同類なんじゃないか。などと想う。大概、底が知れてる。終わってる。穢い野郎。糞。闇。魔。汚物。顔面ッッ!!
なにかに腹を立てると、あらゆるものへの苛立ちや嫌悪がいしょくたになって沸き立つ。けっきょく行き場もない感情は「おまえはクソだ」と、自分自身に向かって帰結する。うん。めでたしめでたし。ハッピーエンド。ううん、ぜんぶ嘘。ほんとは自分はいちばんか二番くらいに正しいと想ってる。それで胡麻のカス。誤魔化してる。まあ、おかげで誰も攻撃せずに済んでるわけで。それはそれでいいんじゃないかな?あ~、黙って。君の意見は聞いてないから。
・・・なんだかもう、なにが嫌なのかもよくわからない、いつもの胡散臭い気持ちになってフラフラと夜を彷徨った。やっぱり夜の暗がりや静けさはゆっくり少しずつでもぼくの心を癒してくれた。方向も考えず、好きな街灯のあるところや、庭の植え込みが素敵な家の前、廃墟みたいな襤褸長屋の前なんかを適当に歩いた。迷路を歩くみたいにうねうねぐねぐね無駄に曲がりくねりながら、静まりかえった夜の音響を独り占めして歩いた。ぼくは世界を盗んだのだ。今、こうして、すべての権限も、時間さえもがすべてぼくの手の中にあるのだ。くすくすくす。うふふふふ。そんな幼稚な妄想にひとりほほ笑みながら、夜をまるでまるっきり自由みたいにフイフイと歩き回った。空気の中を歩くみたいに。夢の中を泳ぐみたいに。それはそれはもうほんとに嘘みたいなぐらい心地いいフリをして。
気がつけば町外れのあたりまで来ていた。夢の中で少年も言っていたとおり、町外れにはうっすらと霧が立ちこめている。ただの霧じゃない。何処か不吉な香りのする、なにかイヤらしい、空を覆っているのとおなじヤツだ。この霧のせいで、今までにたくさんの町や村が地図から消えた。不可解な症状を訴える者や、眠ったきりになってしまったものが霧の蔓延とともに大量にあらわれ、土地の人間は移住を余儀なくされた。その場に残ろうとした人間もたくさん居たみたいだけど、蔓延した霧は暴発したみたいに一気に、町や村を覆いつくして、みんな霧の中に消えてしまった。そのあとどうなったかなんて知らない。考えたくもない。ともかく、こうして町外れに徐々に霧が立ちこめてきているのだから、この町の終焉もわりに近いのかもしれない。もって数年だろうか。でもぼくらはまだ運がいい。10年ぐらいまえに、東の山で急に魔石がとれるようになった。それ以来、おかげで町は経済的に潤っている。だから、みんなそれなりにはお金を持っている。かくいうぼくも魔山の連中が飲みにくるバーで働かせてもらってるのだから、その恩恵は受けているといっていい。イザとなったらどこかほかの土地に移り住むことも不可能ではないだろう。でも、すでに多くの町や村が霧の中に消えて、たくさんの難民たちが都市部に流れた。たいていの場合貧しい彼らはモノとかゴミの溢れる都市部になだれ込んでスラムをつくるしかなかった。
魔山に勤める連中から聞いた話では、魔石が採れるようになって後と以前とでは、明らかに土壌の性質が変わったらしい。というのも東の山が魔山となって以降、土の中に不吉な霧と無数の光の粒の両方が混じりこんでいるのだという。その無数の光の粒もまた、土からそれだけを取り出して精製すればそれなりの魔法エネルギーにはなるらしい。実際、魔石はそれほどたくさん採れるものではないのだから、日常的なエネルギー源の主体はむしろこっちの方であるといってもいい。俗に言う、魔粒子というやつだ。なんだか科学的なのか魔術的なのかよくわからない名前だけど。まぁ、現代の文明のあり方自体がそういうものなのだから、そういう意味では案外しっくりくるネーミングなのかも知れない。それはさておき、土に不吉な霧が混じりこんでいるというのだから、決して魔山の運営に反対が起きなかったわけではない。なんの偶然か、廃山となった魔山の町はみんな残らず霧に埋もれる末路を辿っているという事実もある。と言っても、廃山になった魔山なんてこの25年でまだ100にも満たないけど。その数字は世界中で消えた町や村の膨大な数に比べれば微々たる物だ。だから因果関係に確証は得られなかったし、なにより当時はみんなが貧しかった。けっきょく目の前のエサに飛びつくしかなかった。どちらにしても、魔山の運営が直ちに町や従業員に悪影響を及ぼすという前例はなかったのだから。そして町外れから徐々に霧が立ちこめ始めた今となっては、魔山の運営をしていなければこうならずに済んだのかどうかなんて考えても意味がないし、誰もその答えを知りたいとも想わない。そうやって誰もが未来の魔山のために現実的な教訓を打ち立てようとせず、あたらしく出現した魔山の町でもけっきょくおなじことがくりかえされるのだろう。かく言うぼくも、そんな風なことを他人事みたいにただボンヤリと考えるばっかりでなにもしない。なんにも追求しない。うん。やっぱり他人事なんだろうね。それより今を楽しく、気楽に暮らしたいやって想う。ほんとうは多少なり潤ってる連中が、貧しい連中にお金を再分配できればこんなことにはならないのかもしれない。でも、寄付とか募金とか個人のションベンみたいなお金でしても、何も変えられた気がしない。何もした気がしない。ただ自分のお金が無為に消えただけに感じてしまう。そもそもそれで自己肯定感を得ようなんて甘い考えで、それならせめてとばかりに物欲や性欲や保身欲に走る。その方がまだ自分自身の心にとってはプラスになるのだから。自己を根っから肯定できない甘ちゃんには目に見えない献身(あるいは責任、もしくは免罪?なんにしても実感できない以上はおんなじ)なんかよりも、所有だとか安心、安穏、享楽って類の方が性に合ってる。心のバランスはそうやって保つ。それが卑怯なぼくらの「大人の処世術」ってやつなのさ。大概みんなそうやって生きてる。