ホーリー 第一部
そんなことを考えていると、また虚しい心持ちになっていた。夜の静けさが、がらんとしたうそら寒さに感じられた。誰かのためとか、世界がどうとか、そんなことに対するモチベーションはヒマなときに都合よく沸き立って、そうしていつだってすぐに薄れて消えていった。かといって完全に開き直って、利己的に、即物的に生きることもできなかった。いつだって、心の何処かに後ろ暗さがあった。捩れた若さが脚を絡めとっているせいだ。ぼくは未だにこいつを打ち棄てられないでいる。散々引き摺られて磨り減って、もうちびちびの消しゴムみたいになっているってのに、こいつはまだしつこくしがみついている。まったく、大した執念だと想う。それともぼくが甘いのだろうか。安穏な暮らしをしながらも、それに対して客観的なフリをすることによって自分は一味違う人間だと、そう想っているのだろうか。そうやって自分の価値を捏造しているのだろうか。うん。たぶん、きっとそうなのだと想う。ぼくにはそれぐらいしかアイデンティーを確立する手段がないのだろうね。それにしてもこんなことは今さら言うほどのことでもないよね。大概みんな似たり寄ったりでしょ?なのになに言ってんだろう。バっカみたい。この厨二病が。さっさと諦めて、フツーに暮らせよ。自分はなにか特別なことができるとでも想っているのかい?だからなかなか定職を探そうともしないのだろーが。この町ではいつだって魔山が人を採ってるってのに。まぁどうせその魔山も、この町も、あと数年くらいしたら霧の中に消えちまうのだろうけれど。
このまえみた夢の中であんなことがあったからだろうか。自分に優しくなれない。荒んだ言葉ばかりが頭をめぐった。イラついて、イラついて、仕方がなかった。静かできれいな夜の中を勝手気ままに歩いた。無理矢理にでも、何度も何度も心地のいいフリをした。そうして心を洗おうとした。包もうとした。それでもすぐに心は尖って澱んで、ささくれだった。そうなっては偽善も偽悪もおなじことだった。どちらも区別ができないくらい混じりあって、ただ破滅だとか崩壊だとかに向かっていた。0か100か。救いが欲しかった。光が欲しかった。でもそれはあんまり遠いから。自分にはその資格がないから。そう想えてならなかったから。だから倒錯して駆け抜けた。精神の迷路の中を。ただ誤った方向に。光とてんで別の方向に。
悪魔にもなれずに、唾を吐いて歩いた。吐き棄てたちっぽけな感情には地ベタでさえもが上品過ぎた。砂利道やあぜ道の朗らかな小石や土を汚した。おあつらえ向きの、なまぬるい罪業だった。亡者のような目を、動きを、していたことと想う。ところは北の町外れ。午前一時過ぎ。霧がうっすらと、見棄てられた畑を覆っていた。どうやら霧が立ちこめ始めてからというもの、この一帯の畑では作物が実らなくなったらしい。もう長いこと放置された畑には、名も知らぬ雑草だけが鬱陶しく生い茂っていた。月が妙に明るかった。霧に煙る田舎道を、ぼんやりと照らしていた。幻想的だった。霧に月の光が照り反って、辺りは一面、白く柔和な輝きに包まれていた。まるで月の灯火が霧のもつ陰業を浄化してしまったみたいに、その光景は清らかで美しかった。ぼくは脚を停めてただその光景に見入っていた。抱え込んでいたもろもろの感情すらも、何処かに置き去りにされていた。
柔らかな月と霧のヴェールに融け込むようにして、誰かの透明な歌声が響いていた。まるでその歌声が、すべてを幻想的な優しさへと浄化しているようにも想えた。そして、ぼくはその歌を知っていた。それは確かに、何度か耳にしたことのある歌だった。何か予感のようなもの(あるいはそのときすでに確信があったのかもしれない)を感じて、ぼくは足音を消して、耳を澄ましながら歌声のする方へと向かった。畑と畑のあいだの細いあぜ道を渡り切って、背の高い雑草の生い茂る空き地へと辿りついた。その隅っこの茂みの向こうに、小さくしゃがみ込んだまま哀しそうに唄う少女の後ろ姿があった。
浴衣、というものを着ていた。うさぎの絵柄だった。たぶんこの地方で、いつかもわからないくらいずっと昔に、ごく一般的に着用されていた民族衣装だったと想う。でも子供用なのだろうか。少し丈が短いような気もした。どちらにしても、ほかに着ている人間を見たことがない自分にはなんとも言えないのだけど。ぼくは少女がひとしきり歌い終えるまで、邪魔をしないよう静かに、ジッと歌声に聴き入っていた。少女が唄を歌い終え、一息落ち着くのを待ってから、ぼくは想いきって声をかけた。
「み~つけた」
なるべく柔らかく、そして少しおどけた調子で。小さい子どもとかくれんぼをするときみたいに、そんな声を造って、自分もまたしゃがみこんで少女に声をかけた。
「・・・えっ?」
少女は一瞬びくっとして、それからゆっくりと、なにか大切な動作でもするみたいに丁寧な仕草でこちらに顔を向けた。なぜだか、少しだけうれしそうな顔をしていた。その一瞬の表情は新雪のように尊かった。
「・・・え~っ?え~っ?え~~っ!?」
困惑しながらも、少女の表情からはさっきまでの消え入りそうな哀しさがすっかりなくなって、ただ無邪気に朗らかに笑っていた。
「シェフ、シェフ、シェフっ!!シェフだよねっ!?」
少女はぼくの手をいきなり両手でひしっと握り締めながらそう訊いてきた。もうほとんど、そうだという返答以外は断じて受け付けないぐらいの勢いで。その見た目以上に子どもっぽい様子がちょっとおかしくって、それにほんとうに愛しかった。
「え、、う~ん、、シェフと言うか、、なんというか、、ま、そうとい」
「うん!!シェフだよねっ!!!」
「んんっ!?いや、だから、シェフというかなんとい」
「シェフ!シェフっ!うん!!シェフだあ~~~っ!!!」
そんな風に、返答に困るぼくの言葉にかぶせては畳み掛け、かぶせては畳み掛け、いきなりむぎゅうっと抱きついてきた。その感触が、胸にうずまった小さな頭の形や色合いが、なぜだかとても懐かしかった。ぼくはその愛くるしい小さな後頭部を包み込むように、なるべく柔らかく手を添えた。安心したのだろうか、腰に巻きついた手も、胸にうずまった頭も、ぷるぷると小刻みに震えていた。ああ、この仔はこんなにもがんばっていたのか。こんなになるまで我慢していたのか。そんな風に想うと心が痛くなった。それでも、胸に寄りかかった少女が尊くて愛しくて、ぼくは確かに幸福を感じていた。ぼくは何度も何度も、ゆっくりふうわりと少女の頭に手を寄り添わせた。それぐらいしかできないことが心苦しくもあった。それでも何度も何度も、震える少女の頭をちっぽけな手で包み込んだ。いや、包み込もうとした。
「・・・やっぱり・・・シェフだあ・・・」
涙に途切れがちに、少女は弱々しい声でうれしそうにそう言った。
「・・・うん」
言葉はもう、それぐらいしかなかった。胸に寄りかかる少女の儚く朗らかな声に、想わず涙が込み上げていた。少女はそのままくず折れて、ぼくのひざに頭をもたせて草の上にまんまるく横たわってしまった。その様子はほんとに仔猫みたいで、今さらながら、やっぱり“あの仔”なんだな、うんっ、すうごくピノに似ているっ、なんてそんなことを想うのだった。まるで夢の中の少年になったみたいに、心が柔らかくなっていた。ひざにうずくまる少女が抱えてきた荷物の重たさを少しでも想像してみようとしながら、ぼくは頭の片隅でそんな自分自身の変化になにより驚いていた。